仕事柄、生後間もない赤ちゃんを見ることが多い。小・中学生、高校生、社会人など何歳の人とでも話し合えるし、学びあえる。私のこの仕事、とても気に入っています。 赤ちゃんや子供たちに答えを聞いても、何も答えてくれないかもしれません。答えだと思っているのは大人の勘違いかもしれません。だけど、赤ちゃんの笑い顔を見ればかわいいし、体調が悪そうだと本気で心配します。 その感覚失われていませんか?相手が特有の小さな命だからこその、大人の気持ちってとても大事だと思います。子供が大きくなって、だんだんと親離れするように、大人もまた子離れします。それは本当は子離れなのではなくて、対等の仲間として受け入れる準備なのではないでしょうか。 それもまた偽りのない、大人の感情だと思います。自分の子からみんなの仲間への成長。このタイミングはかなり重要です。 それでは赤ちゃんが育ってくると、どのように見えるでしょうか。最初は何もない世界。ただ光がまぶしくて、重力を感じて、おなかが減る。泣いたり笑ったり、誕生して一番驚いているのは自分であることを自分に気づかせているかのようです。 自分が笑えば、相手も笑う。相手の笑顔を見ようとして自分も笑う。ああ、これが笑うっていうことなんだ。犬にも笑いかけますよね。運良く犬が返してくれればいいけど。誰もいなくても壁に向かって笑ったり。赤ちゃんて面白い。 もちろん「笑顔」だけではありません。「泣く」ことによっても相手の笑顔が得られることを、だんだん知るようになります。 赤ちゃんには難しいことはわからないけれど、何もない世界でないことは確かにわかってくるのですね。 |
幸せを見つけるための、確かな手ごたえ。幸せって本当にあるんだよって教えてくれる、現実のお母さん。それを守ってくれるお父さん。 お母さん、お父さんというのは、比喩であり実体でもあります。比喩したかったのは、お母さんも、人で女性だということ。お父さんも、人で男性だということ。このことがうまくいかなきゃですね。 僕のために、何も犠牲になんかして欲しくない!ね、逆でしょう。僕たちがいることを、単純に喜んでくれる、ありのままの大人たちがいっぱい欲しい。 だから、お母さんとお父さんといっぱいの人たちがみんな幸せでいられるような、おおきな世界が欲しい。そしたら僕ら子供たちも、ありのまま育てるんだ。 最初のこのプレゼントをもらうことが(贈ることが)、今は一番難しいから、子供の歴史サイトはあるし、お話もずっと続きます。 赤ちゃんが最初に欲しいもの。形だけの安心ではなくて、初めて目を開けたときに映る外界が人で繋がっている世界。 |
お父さん、お母さん。それは人によってはおじいさん、おばあさんかもしれません。血の繋がっていない大人かもしれません。自分にとって大事な人って見た目ではわからない。でも最初の取っ掛かりを作ってくれた大事な人って誰にでもいると思います。 そのとき受けた愛情は子供にとって、一生の財産になります。愛情というと定義が難しくて、多様な意味を持つ言葉のように感じられるかもしれませんね。でも、良い意味の多様性は、多様であるという理由では曖昧であるとして考えなくてもいいのでしょう。 例えば、花は、花といえば一つだけれど、いろいろな種類があります。ここで言う花とは美しくて、見ていると気持ちが和むような存在であるとします。このとき、名前は多種ある「花」から何を感じ何を考えるかのほうが、「花」の曖昧さを感じ取るよりも大切なことだと思うのです。 人に対する愛情もこの花に対する感情と似ているところがあります。多様な愛情から何を感じ取るのか。感じ取って何を考え、何を行動するのか。それが、子供を見ていて思う、本当に大事なものの意義ではないかと考えます。 ところがこのところの愛情は複雑な表現多様性のほかに、意味内容の間違いが目に付くような気がします。複雑な表現多様性は子供の側に複雑であるが故の解釈の多様性を増し、子供同士の意思の疎通に複雑性を加算したような気がします。意思の疎通の複雑性はコミュニケーション障害をもたらし、表面的には同一性を強制しているようで、この同一性から溶け込めない子供への違和感が発生、仲間はずれやいじめの根本的な原因はこの同一性から生じる違和感ではないかと考えられるのです。 愛情の意味内容の間違いは明らかに愛情を注ぎ込む親のほうの間違いであり、人や社会や生命に対する考察力不足が原因となっています。 いいかえれば、子供にとって本当に大事なものとは、正しい愛情でしょう。しかし、愛情表現の複雑性は、その間違った観念を一部混在させることにより、見方によって正しく見えたり、間違って見えたりする。このことをはっきりと鮮明にさせないと、子供の考えや行動の多様性を「個性」という言葉で一まとめにすることになり、子供の混乱を生み出す原因となるのではないでしょうか。 |
もっと、赤ちゃんの本能について学ぶことが必要です。事実に基づいた子育てをすることにより、子供たちは事実に基づいて育つからです。当たり前のように感じられるかもしれませんが、案外見落とされているのです。 事実とは、科学的に証明された事柄と、過去の現実を乗り越えた人々がやってきた成功例と、現在進行中の実際です。狭小的な専門家の意見や、マスコミの評論文ではありません。 狭小的な専門家の意見が事実でないと言えるのは、専門家によって意見が違うからです。例えば、助産婦と産婦人科とでは、意見が違いますよね。具体的な方針を決めるときにあてになるのは、意見の違いが生じる前の共通意見までです。 マスコミの評論文が事実でないと言えるのは、専門家以上に見解が異なるからです。つまり、私たちは正しい知識を容易に入手できないのです。 これからの子育ては、一人でがんばることを意識的に回避する必要があります。正しい知識を獲得するためには、多くの人の知りえた情報を集積するしかありません。 だから、たった今できることを挙げるとすれば、当事者であるお母さんが、先入観念を捨てて目の前の赤ちゃんの(子供の)ありのままの姿を大切に思って、よく見てあげること。そして、事実を知るための行動をすることなのです。 |
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