子供の歴史7

子供の歴史7 @内と外の話
at 2002 04/08 22:57 編集
子供の歴史では子供たちの内側のことを一年間書きつづってきました。これからずっとというわけではありませんが、今回は子供から見て外のお話をさせていただきます。

「行ってきます。」いつもの朝を迎えました。朝は陽射しがまぶしくて、学校につくまでの間、てくてくと予鈴に向かって歩きます。玄関で靴を脱ぎ、上履きに履き替え、教室へと向かう途上で、何人かの人とすれ違いました。

最初は先生。教科を受け持たれていないので、名前も知りません。でも先生はにこっと笑って、「おはよう。」と言ってくれました。「何先生だろう?」首をかしげて考えると、ようやく思い出しました。「校長先生だ!」
今日は朝礼。長い校長先生のお話がある日です。ときどき疲れてしまって、倒れる友達がいたり、ちょっとうるさくおしゃべりをする子供がいたり、私はどちらでもなく、一生懸命聞き入るほうでした。

校長先生に限らず、学校の先生のお話は、たいへんためになり、大好きでした。と同時に、これからクラスが変わったり、卒業したりすると、もうお話が聞けなくなることをたいへん残念に思いました。

いよいよ、新学期、新しいクラスで、新しい先生のお話です。それよりも、クラスになじめるのか、自分のことで精一杯だけれども、先生がたくさん話をして、クラスにまとまりがあるとお友達もできやすいのです。

朝礼で校長先生、クラスで担任の先生、どちらも大事です。校長先生のお話がうまいと、学校が引き締まり元気が出てきてとてもよい学校になるし、担任の先生のお話がうまいと、一年間頼もしさでいっぱいの素敵なクラスになるだろうと、期待で胸がいっぱいになります。

だから、廊下ですれ違っても会釈さえしてくれないような先生は、とても好きになりにくいです。子供同士でもそうですね。明るい挨拶は、良い学校の基本中の基本です!

クラスがまとまってくると、行事が楽しくなります。係活動も、放課後の談話も、部活や遊びもです。勉強は一概に言えないけれど、勉強と同じぐらい大事な学校生活が、うまくいくと保障されたような感じがします。

でも、お話し上手っていったいどのようなことがうまいのでしょうね?それは多分簡単なことなんですね。

まず聞き上手。相手の言っていることをよく聞いて、よく理解して、わからないことは質問することが大切です。聞き流しは良くないですよね。聞いているようで聞いていない、自分のことばかり話すのはちょっとね。でも、話さないよりはいいですけどね。

もったいぶらない、タカピーにならない。裏返せば、開かれた話を謙虚に進めることです。もったいぶるというのは、自分の利益を他人に分け与えないことで、独り占めって言うことです。そうなると、相手も心を開いてくれないでしょうね。タカピーというのは、謙虚じゃないってことで、知ったかぶりをする人に共通する性格です。これは大人同士の、わざとそれを楽しむという以外には利点はないでしょうね。どんなに自分のほうが良く知っていても、相手の質問に対して耳を傾けたり、相手に質問したり、認め合ったりすることは重要だと思います。

タカピーはよく知っていることが、その人の短所になる代表的な例と言えます。それは大きな損失です。なんといっても、人はひとりでは生きられません。自分の言葉に対して、責任を持つというよりも、もっと手前の、相手を尊重するという段階でつまづかないようにね。

そのことを一番練習できるのがさっきお話した、先生の話をよく聞くことなのです。もしその先生の言われることに反論があるとしますよね。そのときでも、すぐに反論しないでなぜそうおっしゃるのか、よく考えることが大事です。自分の非は認めたほうが良いけれど、相手の非を間髪いれずに突っつくのはよしたほうが良いでしょう。

友達同士でも同じことですよ。だいたい、完璧な人などいないのですから、悪いところをつくなんて簡単ですよ。いいところを探してあげなければいけません。よく考えた末に、やはり納得がいかないときには、とことん話し合いましょうね。そうしないと、違った人生を歩んでいる人が話す、貴重な情報を聞き逃すことになるのですから。

「正しいことは一つではない。」ということをこの場を借りてお話しているのですから、ぜひ覚えておいてくださいね。

たとえば、けんかはとめたほうが良いでしょうか?いじめはとめたほうが良いでしょうか?ボランティア活動は進んでやったほうが良いでしょうか?

よく考えること、よく話し合うことが大切なのです。とくに、よく話し合うことで、複数の人の合意事項ができたらそれに従うことが大事なのです。

先生の言われることが、生徒全員の納得のいくないようであれば、それは「師の教え」となり、子供たちの人生のお手本になるから、問題なくみんなが守ろうよ。

でも、もしも反対意見が一人でもいたら、それは納得のいくまで話し合うべきです。それが民主主義でしょう?多数決の原理はあんまり好きじゃないな。

たった一人の意見がある集団で仲間はずれになったからと言って、他の集団でも仲間はずれになるとは限らないですよ。それは外国の文化をみればわかります。

とくに行動様式に関しては、顕著です。「車は左側、歩行者は右側」などは、アメリカでは逆でしょう?だから行動様式は、範囲の合意が大切なのです。

自分の家族だけで通用することを、他人に強要できないのと同様に、自分の信念を他人に強要することはできません。しかしその信念が、主張すべき状況下にあるときには、話し合いの題材にすることは誰にでもある、基本的人権です。もちろん子供にもあるのですよ。

それはいつでも行使できるので、きちんと議題にしてもらうと良いです。そのかわり、よく考えることと、謙虚に話を聞くことはしてくださいね。よく聞かないで主張すると、わがままそのものになりますからね。

今回はこれで終わりです。子供の内側から出てくる気持ちと、親や先生との意見の違いが出たら、読み返してみてください。

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at 2002 04/18 23:22 編集
先生という字は「先に生まれる」と書きます。よく言われることですが、言いえて妙ではないでしょうか?

先生がおっしゃることの一つ一つが、先に生まれてきてつちかってきたことの集大成なのです。もし君が学校ではなくて、興味のある場所で先生と会ったなら、きっとその先生を好きになると思います。

同じ人なのになぜ好きになるのでしょうか。二つあると思います。まず、自分が興味を持っている場所の一員として、先生のことを見るから。

二番目は、自分にとって面白い場所では人間関係が対等と思えるか、対等でなくても納得のいく上下関係とおもえるからです。

どちらも自分の気持ち、受け入れようとする気持ちが作用して、先輩とか師匠として認めることができるからだと思うのです。

究極的には好き、嫌いとか、ニーズがあるとか、ないとかの問題に落ち着くのではないかと、考えますか?

だとすればそれは残念です。学校の先生にも落ち度はあるかもしれないけれど、少なくとも子供が好きでなければやらないのではないでしょうか?それから、教える必要があって授業をされているのではないでしょうか?

でもね、本当はそのことを中心に、先生をしたおうなどと言いたいのではありません。もっと大事なことがあるんですね。

それは、そう思うことが、あなた自身が子供の出口にさしかかっているということなのです。成長ではなく、年に流されてね。

先生だって人間だから、子供たちと楽しくやりたいと思っているはずです。先生の心の叫びも、聞き取ってあげようね。心を開けばいい、それは友達にも、家族にも、そして自分自身にも。




子供の歴史7 Bひとりぼっちじゃない
at 2002 04/20 20:58 編集
ぽつんとひとり座ったまま視線を合わせないように窓の外を眺めている子供がいます。雲の動きや風の仕業を見て、思いにふける時間。喧騒が鐘の音のようにうねり、自分を包み込んでは通り過ぎるだけのひととき。

彼はひとりぼっちじゃない。静かに沈黙している時間は何かを考えている時間。寂しくなんかありませんよ。出番を待つというのも決して無駄なことではありません。

ちいさな時空の中で、ほんの少し間があって、時間にせかされることなく窓を見つめる子供がいても、私たちは大好きです。

聞いてね。こうしてものを書くとき、ひとりで書いているのです。誰に書いているですって?エッセイはね、読んでくれる人に書くこともあれば、自分に書くこともあります。宇宙に向かって書いていることさえあるのです。

絵を書く人、音楽を作る人、何かを創造する人はみな最初は一人。

これはね、初めから作られたものに身を寄せる人にはわからないことかもしれません。

ひとりぼっちのように人から見えて、自分でもそう思っているあなたがいたら、私たちは大好きです。ただ出会っていないだけ。

でもね、ひとつだけ、努力不足なことがあるかもしれません。それは、あなたが、ほかの人の創るものを見ていないかもしれないことです。形になっていない、心の作り出したものを、見てみる努力はしなければいけませんね。

本当の寂しさは、ひとりぼっちなことではなくて、人の気持ちが見えなくなること。喧騒がうるさくなく感じるほど適応することは、集中力の代価ではあるけれども、人の気持ちが喧騒と感じられるときは、注意してね。

小さな集まりの中で、自分が痛々しいなと感じたときは、自分より立派な人に相談してください。苦しいときにはくり返し読んで見てね。最低限、相談相手になる大人、ここにいます。




子供の歴史7 Cみんな輪になって
at 2002 04/23 21:57 編集
一歩踏み出すことはとても勇気がいることです。友達になろうよ。その一言がなかなか言えません。でも、自然にまかせていたらいつまでたっても友達の輪には入れないかもしれません。

なぜかというと、二つあると思うのです。一つは、自然の状態というのが、友達を作る方向へと向いていないからなんです。どういうことかというと、学校でも近所でも、友達募集なんてプラカードを見ることはないでしょう?インターネットでは当たり前のように、相互リンクをするけれども、ネット外で相互リンクに近いものを探そうとすると、「同人」とか「サークル」になります。しかしこれは、一般の生活ではなく特別な状況ですね。だから、普通に暮らしていて、自然に流されたままになっていると、「地縁」に近い人間関係だけで友達を探すことになるんですね。

二つ目は、すこし寂しいことだけれども、子供であればあるほど、他人の内面を汲み取ることは難しいからです。あなたがどんなに良い人でも、ちゃんとアピールしない限り相手にわかってもらえないんですね。だから友達が欲しいと思ったら、目立つ努力はしないとね。これは誰のせいでもない、自己PR力は必要な能力だから、鍛える価値がありますよ。

そうやっていろんな努力をして、あなたに似合った友達ができたとしましょう。さて次は何をすればいいと考えますか?

何人かの友達の輪が閉鎖的にならない工夫が必要です。たぶん閉鎖的になるんですね。なぜかというと、時間や考えを共有し始めると、新しい仲間が増えにくくなるからです。

まだ早いと思うんです。大人になったら、考え方の遠い人とは仲間になることができないかもしれませんが、子供の時代にはなるべく違った考えの人を受け入れることがとても大切です。

あまりこじんまりした人格は、あなた自身の欲求不満の原因にもなります。当然ですね。ぴったり100パーセント自分の考えと同じ人は求めること自体無理でしょう?

100パーセント合うことを考えるのではなく、論点に応じて話し合う習慣が生きる力となってあなたを支えるのです。宗教でさえ経典の解釈を論じるでしょうし、人の考えることに完璧はありえません。

それでは「愛」などの概念はどうでしょうか?「愛」は決して100パーセントの合意ではありません。まして「好き」「嫌い」の延長上にあるものではありません。

「愛」「友情」は極めて近い言葉であると思います。互いに信頼しあうと同時に助け合って生きていくこと、それ以外の要素で定義すると微妙に異論が生じます。互いに信頼しあって助け合う人たち(愛や友情で結ばれた人たち)の間には「好き」が生じるはずです。

もしも、クラスのみんなが「愛」でつながることができたなら、その輪は一生涯の財産となってあなたを支えてくれるでしょう。子供の時代ってそれができるチャンスなのです。

私は小さいころからそのように考えてきたから、生徒会長をやったりいろんなことを試みましたが、工夫が足りなかったようです。あなたもチャレンジしてみませんか?




子供の歴史7 D何が本物か見つけよう
at 2002 04/27 23:34 編集
学校の授業、教科書、資料集、図書館の本、先生のお話、友達の話、家族の話、テレビ番組、新聞記事、雑誌。情報源はものすごくたくさんありますよね。

いま、一番大きな話としてご紹介できるのは、宇宙についてです。宇宙は閉じられた空間ではなくて、外の世界とつながっている、それはまるでお母さんと子供のようにだそうです。

みなさんの予想通りでしたか?人々の謎を次々と解き明かしてゆく「科学」って本当に面白いですね。

もう一つ大きなお話として、普遍性という言葉をご存知でしょうか。普遍性というのは対照実験と同じように、その他の環境をいっしょにして、比較したいものだけをいろいろ変えてみると、ある事実がわかってくるのですが、その事実のことをさします。

例えば、花の咲く秘密を研究した人がいて、最初は気温によって花が咲くのかと思ったら、実は日照時間によって咲くことを見つけました。そのとき、気温を一定にして、光をあてる時間だけをいろいろ変えてみたのです。

普遍性はいったん見つかると、長い間をかけて例外がないか調べられたり、そのものの原因を突き止めようと、研究者たちの注目の的になります。

私たち人間についても詳しい研究がされています。まずは心理学ですね。心を科学しています。そして心を生み出す大脳を対象にしている大脳生理学、体を研究する医学や生物学、人と人との関係を見つめる行動科学など。

様々な学問から、多数の普遍性が発見され検証されると、その多くは学校の教科書に盛り込まれて、お勉強内容になるわけです。

そのことの利点としては、迷信や誤解が減ることで、初めて会話をする人どうしが、共通の正しい知識に基づいてコミュニケーションすることができるという点があります。

反面、まちがっているかも知れないという批判から生じた、人々の探究心や、未知の事柄を明らかにしたいという好奇心は、専門家の人たちの手に委譲され、一般の人々から自由な発想を奪ってしまうかもしれません。

それらの長短を踏まえて、何が本物かを見つけるけることが、これほどまでに重要な時代はなかったかもしれません。

普遍性の蓄積により現代科学が成り立っていることは確かです。でもそれが本当に必要なのは社会や対人関係であり、一人の人間にとって100パーセントの要素ではありません。

その辺の微妙な色彩が読める目を培っていくために、子供たちの心と立場をもっとよく見つめていかなければならない、それを大人にお話したいということと、現に子供である人は、不用意に個別性だけを追わずに、普遍的なものへ関心を持たなければならないと私は考えています。

本物とはそれぞれの役割を、つねに「場」ととらえ、「場」を改善していく柔軟性を持ち合わせることで、固定観念化しない普遍性を求めて、開放的に運用されている人や組織ではないでしょうか。

常時、初心に戻ることができ、新しく最初から学ぶ人にとことん付き合えるような、先生と親が一番求められています。




子供の歴史7 E外見と内面
at 2002 05/08 16:36 編集
自転車屋さんの手がペンチとスパナを軽やかに使い、パンクがあっという間に修理される。手を洗う姿を見てこう思いました。なんて頑固な油汚れなのだろうか。粉石けんとたわしでゴシゴシ洗ってもなかなか落ちません。ふやけるほど長時間やっているのだけれど、指紋の部分と臭いだけはお風呂に入るまで無理だそうです。

彼はいったい、好きでバンクを直しているのだろうか、それとも生活のために仕方なくなのだろうか、と私は思いました。手の節々が通常の人の2倍はあるでしょう、手の厚さもしかりです。

お宅におじゃますると、居間には趣味の書道、俳句などが飾ってあり、似つかわしくない繊細な様子に驚きました。お茶を出す動作は正式ではなくてもていねいで、お茶の葉を茶筒のふたで適量はかって、注ぎ口をまわすようにして湯を入れてくれました。

何年入れたら、このような自然流の作法が、お話しながらできるようになるのだろうか、私はドキッとしました。子供たちは大人のどのような場面でも見ているはずです。一生懸命に働いている場面、書をたしなんでいる場面、茶を入れている場面。

外見は静止している姿とは限りません。手の様子、臭い、声のかれ方。大人として社会に出て、必要な仕事をして、蓄積されたもの全てが外見に出てきます。

野生動物が食料を調達する必要から、特定の筋肉を発達させるのとは明らかに異なる人間の外見。原始時代、社会的分業が始まったときに、適材適所により、人的資源が配置されたのでしょうか。それとも頭数をそろえるために、力不足のものでも配置されたのでしょうか。いずれにせよ、配置された人々の作業の蓄積は、伝承される必要がありました。

伝承するなら、世襲が効率の良い方法だったでしょう。それぞれの名人がそれぞれの技量を子孫に伝承すれば、一つひとつの作業におけるノウハウおよび必要な精神的心構えが、改良されつつ継承されます。

高度な社会になると、伝承は非常に長い準備期間を必要とします。細かく枝分かれした作業は全てが高度なものとなり、新しい発想による発明をする場合にさえ、単なる思い付きではないものばかりです。

下積み期間として社会共通の知的財産を習得し、そのうえで自由な発想をきたえてゆかなければ、継承も発明も世に出ないまま思った人の中で眠ってしまいます。

ところで人の内面は、このような外見とどのような関係にあるのでしょうか。人が子供のころから抱える個人的な幸福感と、社会的分業や技量の蓄積、伝承は、個と普遍という永遠のテーマにさえあげることができるでしょう。

バランスをとるということに着目すれば、比率の問題になります。しかし本当にそれでよいかというと、それだけでは割り切れない何かが存在するような気がします。また、それを質の問題としてとらえることにも若干の物足りなさがあります。

バランス、質とは違う個と普遍の関係を後述させていただきます。




子供の歴史7 F見つけたら努力しよう
at 2002 05/08 17:41 編集
プロ野球のイチロー選手も言われていたように、本当に好きで、自分はそれをしなければ生きていけないんだ、というものを見つけたら、ぜひがんばって欲しいと思います。

社会的な分業もこれだけ多岐にわたると、基礎の積み重ねだけでも相当な時間がかかります。前回お話したのは世襲による技術的、精神的なものの継承でした。子供のときから親のするのを見て、生活の一部分としてノウハウを体得するという意味で、世襲という言葉を使いました。

ところが、社会的な役割はいつまでも一定ではなく、そのうち役割そのものが劣化してくることがあります。時代の要請にこたえてそれぞれの役割が生まれて、お仕事の一分野が成立するのだけれども、競争相手や違った方法によって自分の果たしてきた役割がそのままでは先細りしてしまうこともあります。

親のすることがこれからも行けるという状況かどうか、それらは将来の予測なので確実なことは言えません。うまく行く確率が高ければ、きっと親からのすすめがあるでしょう。

最近は子供の自由にさせる親が多いようです。自由は聞こえは良いですが、自己責任でという意味なので、なかなかたいへん。お仕事に関する苦労、報酬、将来性を考えるとき、子供に自分と同じ仕事をして欲しいと考える大人が減少したために、子供の自由にさせる親が増えてきたのだと考えることもできます。

どんな仕事でも現在の日本の経済状況では苦しい、何をすすめればよいかわからないから自由にさせるというのが、声にならない真意かもしれません。

いろいろな情報が手に入りますよね。それらの情報を活用して、一人ひとりの夢と目標を見出し、見出したらそれに向かって努力してみましょう。たぶんこれが子供たちに言える精一杯のエールです。

そういう厳しい状況だから少しぐらいの猶予があってもいいではないかということで、80年代にはモラトリアムという言葉が生まれました。ほかに複数の語義があるのですが、ここでは社会に出る前の猶予期間として用いさせていただきますと、2000年代の子供たちは、節目のないモラトリアムによって人生の大部分を過ごしているとさえ言えるかもしれません。

ところがそれは子供たち本人に責任があるという論調がありますが、その論調には抵抗があります。僕は、常に新しい命をもらって生まれてくる子供たちに、今日的な自由を負わせているのは、少々ハンディのつけすぎではないかと考えています。




子供の歴史7 G親と先生
at 2002年5月16日 編集
今日的な自由とはうまく生きてゆく方法を教えることができない大人の言い訳に過ぎません。世襲は社会的な役割の果たし方、食べて行く手段、その他子供が外の世界と接するための方法としては、不合理な考え方ではありません。

それが何らかの利権と結びつき、大きな私的肥大化の原因となっても、不思議なことではありません。歴史的に資本が集中したのは、生産手段の占有であるととらえて差し支えないと考えています。

しかし、ブルジョア(資本家)とプロレタリアート(労働者)の階級闘争という構図のもとで、生産手段の分散を図り、利潤の公平分配を求めてきた時代を考えると、その時代にどうして子供のことを考えなかったのかという不満が僕にはあります。

本来それは、子供の歴史のなかに組み込む必要があったのではないでしょうか。裕福な資本家が世襲によって自分の子孫を反映させること自体は特に悪くないでしょう。労働者は生産の主軸ですからこの点では役割分担です。役割分担を世襲したとしても、つまり労働者が子供に労働者としての道をすすめたとしても、まったく不思議ではありません。問題点は、次の点にあるのです。

それで子供は喜んでいるかどうかです。

子供が喜ぶというのは、子供の笑顔に象徴されます。まず、子供の個人的幸福追求の充足です。真剣な努力の結果人間として成長することに喜びを感じたときに見せてくれる笑顔によって象徴されます。

次に、子供の社会的幸福追求の充足です。普遍的なもの、信仰や社会に広範に認められたときに、安堵感や達成感から生じる笑顔によって象徴されます。

両方の場合において、笑顔の成り立つ社会は経済システムとはまた別の次元でとらえなおすことにより、ごく自然に理解することができます。

経済システムとは別の次元ということに関連して、創業百余年の老舗があげられます。老舗は社会状況により自らを変化させたにせよ、社会状況に打ち勝つような何かを持っています。そのような老舗のほとんどが変わらぬ味や技といった、社会の変化に左右されないより力強い伝統をもっています。伝統を受け継ぎ発展させる道を歩む人は経済システムを超越した人間的成長と普遍的認知が享受できるものと思われるのです。

子供が喜ぶかどうかいうとらえかたの利点は、時代にもイデオロギーにも左右されない単純な幸福感そのものです。子供が喜ぶ社会で、どのような社会的不利益があるのか僕には想像できません。

ほんの少し、子供中心主義による教育に対する批判を目にしたことがありますが、子供の個人的な幸福追求を「わがまま」としてとらえ、子供の欲求が「甘え」を前提として発生しているというのが論旨ではないかと理解しています。これについては考える基準を快い方向に移動してみることをおすすめします。

一つの提案ですが、「適度な努力の成果に対する期待」を子供たちが持ち、教育はその期待にこたえるような技を持たなければならないと僕は考えています。




子供の歴史7 H21世紀の子供たち
at 2002 06/27 23:26 編集
みんなを取り巻く環境って一筋縄ではいかない難しい問題ばかりのように見えるけれど、実は意外と気楽に取り組んで解決できる。そういうことに気づき始めた子供たちが増えてきました。

一番大きな問題はやっぱり環境問題なのでしょうね。人によっては、遺伝子などの問題を取り上げるかな。でもよく考えてみると、21世紀の子供たちが、真剣になって考えれば、20年ぐらい経てばだいぶ良くなってくる。もっと大きな問題があるんだ。それはみんなが直せるんだ。

なぜなら、今の20歳の人は40歳になるし、0歳の人は20歳になるからです。チェンジ・ユア・マインド!!学校に行くとか行かないとか、ではなくて、本当に大事なことってなんだろう?って考えてくれるだけで、すごく良くなるんです。

地球上にいる10億人以上の子供たち。この子達がやってくれると信じているから、僕らがんばる大人はその下ごしらえに余念がない。




子供の歴史7 I今必要なもの
at 2002年7月1日 編集
なぜに答えてくれる人。本当の意味で愛している人。

とにかく、本当とか、まっとうとか言われる内容を子供たちは知りたがっています。

「なぜ、僕は生まれてきたの?」
「なぜ、人は働くの?」
「なぜ、一人じゃいけないの?」

こういうふうに考えたことって誰にでもあるでしょうね。子供だけではなくて、ほとんどの大人の人も含めてです。そのヒントは、子供の歴史8にまわさせてくださいね。

子供たちのなぜに答えられるサイトになりたい。子供の歴史は、いつまでも子供を見ていたい。そして、話したいです。どうしてそこまで熱心なのですって?笑。それは逆です。全世界の大人が熱心でなければならないのではないでしょうか。




子供の歴史7 エピローグ「こどもがみんな笑えるように」
at 2002 07/03 22:07 編集
昔の夢を次々と成し遂げて、多勢の人を幸せにしようと思って、本当に多勢の大人ががんばってきたはずなのに、楽しそうな子供を見ることって、探せばいるんだけれども、普通には見られなくなっています。

その代わりに登場したのが、新しい大人の姿です。ある人は笑顔を探しているし、ある人は曇らせている原因を直そうとしています。そして、一番新しいのは笑顔ってなんだろうということを真剣に考え、感じ、表現しようとしている人たちです。

これらの人たちに一生懸命声援を贈って、いつかは仲間になって、自分たちもそうなりたい。もし、そう願っている大人が、僕の思っているよりも多勢いるならば、必ず子供たちは笑ってくれる。

子供たちの笑顔。本当のところをお話しするために、まだまだ子供の歴史は続きます。




子供の歴史1本文 1970年代〜80年代:こどもたちの「きもち」と「たちば」
子供の歴史2本文 1990年代:こどもたちの「きもち」と「たちば」
子供の歴史3本文 2000年代:こどもたちの「きもち」と「たちば」そして各論へ
子供の歴史4本文 2000年代:こどもたちの「成長」「自然」「愛」「風」
子供の歴史5本文 こどものきもちのはじまり〜胎内・寝返り・はいはい・つかまり立ち
子供の歴史6本文 こどもの行動:ゆびをつかむ、子供に学ぶ
子供の歴史7本文 こどもの内と外の話
子供の歴史8本文 こどもの質問にこたえる
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