ハイセンスな振る舞い。あか抜けした笑顔。確実に進行している流行の即時性。こんな地方の小都市でも変化が感じられる。僕が勉学のためここ三条市を空けたのは5年間でした。
時は昭和56年〜昭和61年、西暦で1981年〜1986年。東京での生活が幻のように過ぎ去り、大好きな子供たちの元へ僕は帰ってきました。 最初に再会したのは従兄弟のだいちゃん。あの赤ちゃんがすっかり大きくなってもう高校受験とのこと。家庭教師にと頼まれて叔父の家に週二回通いました。勉強半分、ファミコン半分。 信仰心の厚いこの家にも遊び道具があるなんて半信半疑のまま半年が過ぎ、見事合格。この能力にしてこの高校。相当ゲームにはまって時間を費やしたことを想像させるのに十分な腕前。 聞けばファミコンのほかにアーケードの常連だとか。僕も学生時代にはさんざん通い詰めたアーケードですが、あれは東京のレジャーであるとばかり思っていました(笑)。 当時の若者にとっては童心になれるということと、コンピュータの描き出す架空世界に酔いしれるということなのかも知れません。当時のファミコンは、大学生にとっては遊び。 それより下の年代にとっては、現実時間とのせめぎ合いとなって作用したといえるでしょう。言い換えれば、モラトリアムとの違いが見られ始めたのでした。 |
テレビから聞き慣れない音楽が流れてくる。画面にはローラースケートをはいた若者が、様々なフォーメーションを組みながら踊りそして歌っている様子が写し出される。
東京に旅立つ前、僕の記憶していた音楽シーンは、フォークソングからニューミュージック、ちょうど、さだまさしさんが「雨やどり」をテレビで歌い話題になったころでした。 あれ?僕が洋楽に没頭している間に、テレビ音楽は変わったのだなあ。そう思いながら新しい風を心地よく感じたのでした。 こった演出が感じられました。おお、あそこではチャゲ&飛鳥がイメチェンをしているではありませんか。ああ、TM-NETWORKの曲を買ってみよう。あふれんばかりの新曲、タレント。 流行の即時性はこの商業音楽の効果でしたか。コンビニエンスストアーでは、幾種類もの雑誌が並び、それが24時間入手できるようになり、わたしも常連になりました。 中高校生に、自主的消費の扉が開放され、保護者と子供の間には大きな隔たりが見られました。モラトリアム世代より一世代上の年齢。この人たちが、いま、親なんだ。 |
公園や空き地で飛び回る子供たちがうるさいほどだったころに、缶けりやたんぼといった子供のルールで遊ぶといった体験は、同時に大人との対決を意味していました。
「もう少し、早く帰ってきなさい。」 「だって、楽しいんだもん。」 「足をぞうきんで拭きなさい。」 「めんどくさーい。」 子供たちが幅を利かせ、大人たちが一様に手を焼く光景。「子供だから」といっては子供たちを許してくれる寛容な大人たちに、思い切り甘えてはしかられてばかりいました。 テレビに子供自身の投影が踊り、コンビニエンスストアーでは無表情な大人が、世代を越えて同質な情報を手に取る。ファミコンにはうるさい大人はいない。 だんだん子供が老けていく。だんだん大人がぼけていく。子供と大人がつながった時に危険な兆候を覆っていたのが、物質文明だったのです。 |
大人社会と子供社会が明確に区分けされていた時代に、非行といえば暴力か反抗でした。 非行は「大人社会あるいは子供社会への抵抗」という大義名分を持っていました。「大人社会への抵抗」は校則違反という形で髪の毛や制服をいじるなどして容姿に現れたり、遅刻や早退・無断欠席という形で行動に現れたりしました。 「子供社会への抵抗」は規則化された同世代たちへの反感が動機になり、言葉で暴言をはいたり、暴力で脅かすなどして仲間を増やすか、自分たちの存在領域を確保するために行われました。 以前の大人たちが、「不良も大人になれば直る。」または「若いうちは好きなようにさせておくことがよい。」と言っていたのは記憶に新しいことです。当時の不良の多くはある意味の自己主張を持っていたので、それが他者に理解されれば自然におさまったということです。 反面で、とうてい理解されないものもありました。たとえば、日本の立場では解決のできない外交問題を主張したり、歴史の勉強をおろそかにして現在の制度的なものを頭ごなしに批判するたぐいの物です。 そのようなことを主張する場所を与えられないまま大人になった人たちは、後に成人としての政治犯罪をせざるを得なかった。これは時代の必然であり彼らがそうしなければ誰かがそうしたこととも言えるでしょう。 今、自己主張とはいえない非行があります。表面的にはおとなしそうな子供が突然切れたり、欲求不満の対価を逸脱した暴力をしたり、学校そのものを破壊しようとする動きです。 そしてこれらは貧しい時代に、窃盗が多発することと同じくらい必然的な外因があるのです。もちろん窃盗と同じくらいしてはいけないことなのですが。 |
学校内で子供が大人にかなうわけがありません。複数の先生が職員会議で決めたことについて、生徒には発言権すら有りません。 抑圧されたエネルギーはどこに発散すればよいのでしょうか?「悪法でも法は法なり」とは民主主義的に定められた場合のことです。成立のプロセスが独裁的である場合には、子供たちにも抵抗権はあると思います。 校則で髪型や服装が決められたとき、憲法にある表現の自由はどうなるのか、そう考えたことはありませんか?自然や社会風習について同じことを言っているのではありません。 校則は人が考えて決めたものだから、他人はそれに対し反対意見を言うことができるはずです。子供の立場は弱いのだから弁護人が必要なぐらいです。大人の攻撃。ずっと繰り返されてきた既存の決まり事に盲従させる仕組み。 子供の抵抗権はやるせない気持ちとともに、いじめや非行、登校拒否といったアウトサイダー的行動へと追いやられたのです。 |
高度に発達した社会の秩序を守るために、次々と決めごとが作られてゆきました。 もちろん決まったことは守らなければなりませんが、前提になる条件があります。たとえば養子縁組。これは当事者が同意をしなければなりません。当事者とは養親と養子のほか、養子を受け入れる家族やその親戚なども含まれるはずです。 日本の民法では、養親と養子の同意だけで足りるようですが、これは当事者の法律関係をなるべく早く決定して社会の安定をはかるということでありましょう。往々にして日本の法律は社会の利益、公共の利益を優先しようとするきらいがあります。 子供たちが生まれるずっと前からたくさんの社会規範があり、子供自身がそれらに同意したわけではないのに、守らなければならないものと教えられます。 1980年代に守るべき社会規範の量と質が子供の忍耐力を超えてしまったようです。男女雇用機会均等法。核家族化した家計を維持するため、また女性の社会進出を促進するために作られた法律です。 結果として「かぎっこ」が増えました。さらに、経済活動を最優先する政策は、子供たちから「遊び場」を奪いました。公共の福祉と子供の権利。もともと子供が参画していない状況で、現代社会における「公共の福祉」とはいったい何をさすのでしょうか? |
1970年代、受験競争が激化し、学力ではなく順位を競い合う子供たち。 漢字テストや単語テストの成績で人間の何を知ろうというのでしょうか。先生たちは自分で自分を忙しくしていました。子供が遊びや家の仕事をしなくなりましたが、その代償は広大でした。 勉強のとりわけ暗記力だけを発達させ、あたかも優秀な人間として振る舞うことになれてしまった優等生たち。勉強や既存の価値体系に反抗したくとも、その圧倒的な勢力に対し有効な手段を持たずに、欲求不満を非生産的行動で代謝していく真に若々しい子供たち。いっさいの責務から逃れ自己を安堵の空間に幽閉する気弱な子供たち。そして忘れてはならぬ、無意識のうちに社会の標準になろうとして自己を見失ってしまった子供たち。 最大の被害者は、歴史上どんな時点で生まれようとも暴力や権力に抑圧される性格を持った従順な人々でした。子供はその中でももっとも弱者であるということを、1980年代の他のカテゴリーの人は全く認識していませんでした。 バブルの崩壊以前にファミコンが登場して、子供から主体性を奪ったことは大きいディメリットでした。しかし、皮肉なことに多くの子供の生き甲斐となったことも事実です。 コンビニの出現で大人との境界線が失われ、大人の直接的攻撃をまともに受け、その避難所としてファミコンが存在していました。しかし、子供だましは長続きしませんでした。 1990年代、子供の歴史が新しく始まることになるのです。 |
校内暴力 学校内での暴力行為を言います。ガキ大将が自己のグループの統制を取ったり、支配領域を確保・拡充するために何らかの示威行為をする。 こういうことは昔から頻繁に行われてきました。にらむ、言葉で脅かす、服装や髪型で力を誇示する、小突く。中学生になるとクラス内での自分の地位が問題になってきます。なめられたくない。目立ちたい。 中2になると学年内での地位が決まってきます。優等生・優等生を目指す普通の子供・力関係に大きな関心を持たない子供・ガキ大将に従う子供・ガキ大将など。 同じ学年という横のつながりの中で、上下関係がはっきりしてくると、その学年のイニシアチブを誰かが取ることになります。優等生か、ガキ大将か。ここで優等生とは何でしょうか? 優等生は決められたことをきちんと守る生徒をいいます。優等生は決まり事を守ることを善として行動します。校則と学歴社会が、しばしば並列に議論されます。議論は大きく分類して二つです。 @守る価値のある決まり事であるかどうか?A守ることは価値ある行動かどうか? ガキ大将はいわば自分自身が「法律」です。自分の主観だけで物事を取捨します。逆に優等生は規律自体が「法律」です。自分の主観を過度に排していることがあります。 かといって「利己主義」「利他主義」のようなはっきりとした分かれかたではありません。あくまで子供ですから、力関係がイニシアチブの所在を決定づけることになりやすいのです。 校内暴力。優等生が豹変して起こした最近の事件とは違います。1980年代はまだ、子供の社会におけるイニシアチブの争奪に、既存の決まり事と大人の直接的な関与が、外圧となって押し寄せてきた結果、不利な状況下にある勢力が示威行為を超えて実力を行使したに過ぎません。 |
第二次世界大戦前後に生まれた人たちは古き良き時代をあまり語ろうとはしません。 日本がうぬぼれてしまったにせよ、文明開化・自由民権運動を進めて実を結び、軍国主義と民主主義の狭間で、必死に平和を守ってきた時代。そういう時代を生きてきた人々を親に持って育てられてきたのだから、1980年以前の親世代たちには、多くのことを学んできた、という自負があったはずなのです。 喉元過ぎれば熱さを忘れるがごとく、親たちは貴重な体験を無駄にしてゆきました。その原因として高度経済成長を支えてきたという別の苦労。すり替わってしまったのです。 また、物質文化を謳歌する間に、精神文化を軽んじてゆきました。別の言葉で言えば、贅沢になれて忍耐力が無くなってしまったのです。大人の発言力の低下が顕著になった時代でした。 |
東京からUターン後、最初に感じたのは地方の子供たちがあか抜けしたなあということでした。 なかでも服装の変化には驚きました。東京暮らしをしていたはずの僕よりもはるかにかっこいい。話に出てくる芸能人やスポーツ選手の名前もだいぶ違っていました。 ひかるげんじ、おにゃんこくらぶ、わかたか。ダウンタウン、うっちゃんなんちゃん、だちょうくらぶ。メディアの変化も著しかったですね。CD、衛星放送、ポケベル。 ヤングマガジン、ヤングサンデー、コロコロコミック。あんぱんまん、やだもん、ドラクエ。1980年代に芽吹いた子供文化は、当時の若い大人たちの夢を受け継いだものでした。 その点では、1940年代生まれの人と1950年代以降の人との間には大きくて明確な隔絶があると思われます。言い換えれば1980年代の子供とその親の世代の違いは、ほかの時代における親子の相違にはない特色があったのです。 その特色を研究することが「子供の歴史」のメインテーマでもあります。子供間の伝承の中断とともに、親子間の教育の中断。にもかかわらず、社会全体の流れはいっそう速くて複雑なものになり、いわば家庭と地域社会が経済原理という乱気流に飲み込まれていったということでもあります。 あか抜けた子供たちの服装を観て子供たちの変化に気づかなかったのは親だけではありません。先生も、医師も、研究者も見逃していたのです。彼らは着替えたのではなく裸にされたということを。 |
一見あか抜けたように見えた子供たちは実は丸裸にされていたのです。子供同士の掟やプライバシーは、主としてメディアの影響のもと画一化されてゆきました。
大人の地位の低下に子供の「非子供化」が加わり、両者の間に引かれていた暗黙のボーダーは薄れてゆきました。暗黙のボーダーは保護者と被保護者の関係を保つのに機能していました。 地域社会における教育力の低下と、子供の小さな抵抗の積み上げが、家庭内にとどまらぬボーダレス社会を成立させました。確固たる社会規範をもてなくなったから子供は自己の目標を、さらに広い世界に求めようとしました。 子供の内側から構築され精神的安定を育てる家族愛。近隣者への愛着。そういうものが失われるのと並行して、家族からの過度の期待が浴びせられると、その期待は子供のプレッシャーとなりました。 家族の期待は合理的なように見えて、保身的な期待もあります。この辺がきちんと話し合われていないと、今の子供には窮屈になってしまうかも知れません。「権利」の主張ばかりして「義務」を果たしていない。 そういう大人の声も、言葉の中に愛情がこもっていないと子供としてはどうして良いのか判らないでしょう。裸の子供たちは自分からそうなったのではありません。 生まれたときからたくさんの愛情を受けて育った大人世代の人々にとり、当然判るべき事柄でも今の子供たちには何のことなのかさっぱり判らないのです。判断基準が失われた状態を、僕は裸の状態と呼んでいるのです。 |
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