子供が初めて感じるところ、それはお母さんのおなかの中です。ぷかぷかと羊水で泳ぎ、あるとき視覚が目覚めて、外の光が見えるようになります。最初は赤くて薄暗い。そのころには、おなかの内側で手足を伸ばそうとして、ぷにょぷにょした感触を楽しむようになります。 おなかをなでるお母さんの手。外側から自分をさわっています。姿勢を正そうとして、圧力が加わると、かえってけっ飛ばします。外の音は聞こえない、水中で耳に残るあぶくのような音がするだけです。 時が来て、産道をくぐり抜け、晴れて出生!産湯が熱かったな。濡れた手ぬぐいで拭かれると、少し痛かった。大人は僕のことをどうして拭いてばっかりいるのだろう、初めての感想です。 首がすわっていないから、ときどき寝返りを打たせてくれましたね。同じ方向ばかり向いていると、退屈で泣いてしまいました。泣けば泣くほど、かわいがってくれました。でも、おしめを代えてもらうときの、お尻の痛さには本気で泣けました(笑)。 首がすわり、自力で右左が見れるようになり、畳のにおいや風の音が聞こえるようになると、退屈はしなくなりました。眠っている低い位置から、いろいろな物が見えてくるからです。 光に反射して、普段は見えない小さなほこりが、ふわふわ浮いている様子が好きでした。まだ視力が弱いから、そんな気がしただけかも知れません。でも、ぼんやりとお母さんの顔が見えると、笑ってばかり。 乳首を吸いすぎて、痛がっていたことや、指をさしだしては僕が釣れるのを、楽しんでいたことを覚えています。背中に背負われても、首がぐったりして、上の方しか見えなかった。 空はいつも青かった、それは晴れた日にしか外に出なかったことの証ですね。風に当たらないほうがいいと祖母が注意してくれたことも覚えています。だから大きな帽子とよだれかけが、いつものファッションでした。 自転車に乗って遠くに行くと、見知らぬおばさんがだっこしてくれました。こわかったです。泣き顔をのぞいて、みんなが笑うって、複雑ですよね。生まれたとき、すでにテレビがありました。でも、記憶にありません。 耳からは子守歌、近所の音、ピアノの音、雀の声、タイヤの音がしました。寒いという記憶はありません。いつも暑かった。厚着のしすぎ?とにかく、靴下とタオルが暑かったです。 |
仰向けの状態から左右の天井を眺めるだけの毎日。同心円上の年輪に目を回し、寝入ることが多かったです。だっこしてくれないかなあ。泣けば涙が耳に鼻に入ってきました。 寝返りを打てるようになり、しばらくしてうつぶせになることができるようになると、全身を覆うおくるみのような服がじゃまになりました。だいたい暑いのが嫌でしたから、いっそう息苦しい気がして。 うつぶせになっても頭が重いので、長く前方を見ていることができません。かっくん、かっくん、おでこで頭を支えては疲れて眠ってしまうのです。寝床のミルクのにおいが心地よく・・・。 やがて「えびぞり」から体を反転できるようになり、それを繰り返して移動するようになりました。畳に落ちると、わらのようなにおいがしました。何度も何度も、布団に戻され、遠くに行けば行くほどびっくりされて、楽しいひとときでした。 うつぶせの苦しさから、両手を伸ばすようになると、ハイハイの始まりです。こっちおいでというかけ声におこたえして、なるべく早く行こうと努めました。早いほど喜ばれました。 いつの日か、冬になり、ストーブや階段や窓に柵が設けられました。二階に住んでいたので、窓用の柵は丈夫な竹を横に2本渡したものでした。 外は寒いのでほとんど連れていってもらえなかったのですが、どうしてもというときには、すごい重ね着です。タオル、肌着、薄い服、厚い服、えりまき、おび、母のマフラー、がいとう。 これではせっかくの外出も、眠っているしかありませんでした。おしめが濡れていても、温かくて気になりませんでした。到着すると、ミルクとおしめです。おしめのときのてんかふはいつも多めでした。 おしめは布でしたが、濡れた後乾くまでほって置かれるということはありませんでした。ちょっときつめにあてられると、ハイハイの時はたいへんじゃまになりました。 冬の夜でも、おなかは減ります。猫の鳴くような声で、訴えると、まぶしい電灯の光がともされました。心臓の鼓動を聞きながら、なるべく目を開いていようとがんばって、うす目を開けたまま眠ってしまうこともしばしば。 小さな毛糸の手袋をして、自分の指が見えなくなると、すぐに脱ごうとします。手が冷たくなると、暖めてもらえる。足も同じですね。朝はつららを見て遊びました。つららの向こうにはすずめが飛んでいました。目をそらすと窓に映った自分の顔がじっと見つめていました。 動き出して。世界が六畳に広がりました。 |
子供というのはまだ早すぎる、赤ちゃんというのは大きすぎる、一歳児から二歳児は微妙なお年頃です。行動範囲があっという間に広がるのですが、それは母親を中心とした円内の範囲なんですね。 ありんこのように、めぼしい物体が中継点になり、少しずつ遠いところまで目指して行きます。新しい世界を旅することがこんな小さな時始まっていたのですね。不思議と、冒険中には泣かないものです。 「ママ」あるいは「パパ」と呼ぶのに、案外時間がかかりました。親が発語の対象になると、その対象が笑いかけてくれるので、いっそう言葉を話すようになりました。 新しいものとの出会い、慣れ親しんだはずの人の新しいリアクション、どちらも坊やを喜ばせるのに十分な刺激です。 冒険と発語の障害となる物、それは、円の中心が移動すること、中継点を見失うこと、気持ちのこもらないリアクション。 喜びで満ちあふれている間、円は広がり、中継点が増え、いつも帰ってくるのです。そのとき、手足や顔が汚れているかどうか、見てあげてくださいね。 |
昭和30年代から40年代。おばあちゃん、おばさん、女の人に対する人見知りは案外軽いものでした。男の人はおじいちゃんでさえ、怖かったか近寄りがたい警戒心が湧き出ました。 それはやさしさを感じることができなかったからだろうと思います。当時の男の人は封建的で、おんな・こどもなんて言い方がまかり通っていました。家庭内では、いろいろ反抗できる環境にあった女性もいましたが、一歩外に出ると、肩身の狭い思いをしていました。 男性社会にあって、ともすると男の子供よりも、女の大人のほうが弱者だったかもしれません。なのに、世の女性たちは、子供をかわいがってくれました。感謝しています。 ただ封建的な制度は、家という意味では、従う人のほうが楽できることも多分にあったように思います。仕事をする男性の肉体的な優位性だけではなく、感謝の気持ちが旧来の家制度の最大の柱になっていたのではないかと思います。 ここでいう感謝の気持ちとは、今の時代の感謝とは少し違っていて、主従関係が潜んでいましたから、強い立場にある男性の暴挙を是認するようなこともありました。 つまり、その家の興亡は大黒柱たる男性の双肩にかかっていて、家のメンバーは大きく依存している状態であり、メンバーの人生は自分のものではなく主のものになっていたということです。 子供にとっては、家庭内において、二重の支配を受けることを意味します。まず父の方針。そして父の支配を受けた、母の本来的でない矛盾に満ちたしつけと、怒り・悲しみ・不満のはけ口です。 ともすると近所のおばさんのほうが、大好きだった子供って多かったのかもしれません。女性が一様にやさしかった時代。それは子供にとって、ちょっとした天国でした。 |
幼稚園入学前は、幼なじみの女の子と遊んでいました。あやとり、リカちゃん人形、ゴムとびなど、男の子らしい遊びは相手が相手だけにできなかったです。たまに学校のグランドでブランコをするぐらいでしょうか。 幼稚園に入学すると、広範囲のお友達ができました。男の子と遊んだことがなかったので、すこし弱気になったり、人見知りして腰が引けていました。しかしいつしか、かけっこや、鬼ごっこなどにもなれて男の子の社会へと足を踏み出すことになりました。 カトリック系の幼稚園はとても静寂で、心が落ち着きました。クリスマス時期になると、演劇をします。普段から真っ赤なほっぺが、あがってしまってまっかっかでした。 さまざまな経験を通して、子供は成長するのですが、落ち着いた雰囲気の中で育てられるのもいいものです。心が安定的に大きくなります。 小学校に入学すると、いろいろな子供たちがまじりあって生活します。幼稚園、保育所、家庭で育った子、みんなが公教育を受けます。ここから長い長いカリキュラムをこなしてゆきます。 小学校1,2年生はどこの学校でも、しつけ教育が中心ですね。人間的な成長のために挨拶が励行されます。危険回避のために廊下を走らないように指示され、衛生面から手洗い、歯磨きなども教えられます。 こうして基本的なしつけが行われたとき、それをきちんと守る子と、守らない子が必ず出てきます。きちんと守る子は大人になってから失敗していないようです。守らなかった子は何かしら失敗していられます。 勉強以上に、合理的な約束ごとを守るという精神は大切なようです。必要で不可欠なルールとでも言いましょうか、道路交通法のようなルールは、車社会の安全な運営が目的なわけですから、安全でなくて良いというアンチテーゼははじめから無効なのです。 このことをどのように納得させるのかが、教育技術の問題です。決して精神的な道徳などではありません。また、ご家庭ですでに教えられている状態が望ましいと思います。生まれてから、7,8年経って何も教えられていない子供に、学校が初めてしつけをするのは難しいでしょう。 ご家庭のいろいろな風習があるにせよ、何らかのしつけをされていれば、子供は成長し吸収します。ここで問題になってくるのは、子供は元気なのが一番であるとする考え方のあいまいさです。学校では少々問題児であっても、大きな迷惑をかけていない限り、好きなようにさせて、個性を発揮して欲しいという願いが基本的にはあります。しかし、その影で泣かされている小さな他人の子供の存在を、どのように考えていられるのでしょうか? 逆もまたしかりです。常に待ちの姿勢を保つように教えられてきた子供が、緊急事態に対処できないということは、よくある話です。難しい問題にみんなで取り組もうとするときに、指示待ち人間ではみんなから頼りない人と、見られるかもしれません。 人は、生命をもっています。バーチャルな世界であれば、修正し更新すればいいのですし、他人のアイデアをそのまま流用することも可能です。しかし、生命はリアルタイムな判断が必要ですね。道具はそれを補佐するに過ぎません。 まちがったしつけ、あるいはあいまいなしつけから損をするのは、子供自身です。すべての行動の基礎となる判断力は、本人が自然に学ぶ部分と、大人から教わる部分があり、子供はそれらを吸収しながら育っていきます。 そして、成長の過程で、大きな身体と道具の利便性を獲得します。小さな体と素手のパワー、これは善も悪も小さいでしょう。でも、確実に大きくなる、これは平等にです。大きな身体と道具のパワー、コントロールするのは判断力です。 |
ランドセルが似合わなくなる年頃です(笑)。見かけの大きさで、女子が男子を上回る唯一の年代です。このころになると、無邪気に遊んでいる姿は減り、目的をもった行動へと変化してきます。 活字が得意な子供は、大人向けの新聞をすらすらと読むことができます。話し言葉が得意な子供は、テレビや会話を通して情報を入手します。言語よりも絵や音楽に関心を持つ子供、知識よりも運動が得意な子供、家事や手伝いに一生懸命な子供・・・みんなかわいいですね。 子供たちの目は公正で、潤んでいます。みんなキラキラ輝いています。日本人だけではありません。ここまではうまくいっているのだ、そういえると思います。いえ、うまくいっていない事例も現実にはたくさんありますが、数のうえでは中学の比ではありません。 なぜ、小学生は生き生きとしているのでしょうか?キーワードがあると思います。優先順位を考えずに、列挙してみたいと思います。 ○公立中学校には受験が無いから、テストに特化された教育商品に惑わされることが少ない。 ○受験が遠いので精神的にゆとりがある。 ○学校の先生の教えが素直に聞かれる。 ○保護者の教えが素直に聞かれる。 ○校則がゆるやかなので閉塞感(へいそくかん=しばられてきゅうくつな感じ)が少ない。 ○生活面での指導が合理的(ごうりてき=りくつに合っている)である。 ○同年齢の人たちがまだ子供なので、さまざまな人間関係が理解しやすいレベルである。 ○自分がまだ子供なので、免責事項(めんせきじこう=まちがったことをやっても責任をおわなくてもいいこと、やらなくてはならないことをせずにいてもゆるされること)が多いため自分の好きに生活できる。 ○同じ理由で大人や社会からの被害にあいにくい。 ○被害にあったとしても保護・弁護されやすい。もしくは責任を無条件に転嫁する(てんか=人のせいにする)ことができる。 ○夢や希望を自由に表現することができる。 ○夢や希望の障害(しょうがい=手に入れるときにたちふさがるハンディ)となるものを理解しないことができる。 ○義務教育をあと数年間保証されている。 これらは子供特有の特権です。重複したり、上位の概念(がいねん=かんがえ)に含まれるものもあるでしょうし、二律背反する事項(にりつはいはん=同時に成り立たない二つのことがら)もあるように思われます。あえて列挙したのは、子供たちの多くがこれらを並列(へいれつ=同時)に考えていると思われるからです。つまり、これをやらなければ次が成り立たないということではなくて、瞬時に(しゅんじに=一瞬で)物事を同時存在させる能力が、どの子供にも備わっているのではないかと、僕は考えています。 語弊は(ごへい=言葉がびみょうに言い過ぎていて、だれかのプライドを傷つけていること)あると思いますが、次のことが言えるのではないでしょうか? 小学校高学年の子供が動物的な段階から、人間的な段階に急速に成長するとき、直感的な能力を失っていくことがあります。同時に多くのことを体感的にとらえる力、周りが見えなくなるほどの集中力です。これらの力は、元気よく育つためには欠かせません。 わたしたちは、子供の時間を持続させるためにもっと考える必要があるのではないでしょうか?また、一度失わせてしまってから、これらを回復させるためには、どんなことができるのかを考えることも大切です。 中学校に入学する前に、子供に元気を蓄えさせるのが良いでしょうか?それとも、中学校が元気を消耗しない場所に変わるのが良いでしょうか?それについては後述させていただきます。 |
中学校に入ったら一番気なることとは何でしょうか?小学校にはなくて中学校にあるもの。それは部活動、定期テスト、高校受験・・・いろいろとあげることができます。しかし、これらは制度上のものであり、本人はあまり認識していないことかもしれません。実際には、部活動の練習内容であったり、定期テストの頻度や難易度が大問題なのです。 子供のことを考えるとき、制度上の問題としてのみ語ると大きな落とし穴が潜んでいます。制度はみんなに平等に影響しますが、それらの中身は一人一人受け取り方が違うからです。 たとえば、定期テストが中学生のゆとりを奪うという考え方ですね。それは人によって受け取り方がぜんぜん違います。穏健な考え方の一例として、「テストはそれに対して努力をすることが尊いのであり、努力を重ねるたびに子供は成長する。」があります。定期テストの制度を擁護する立場の人が口をそろえて言われることですね。 反対意見としては、「頻繁なテストが子供のゆとりを奪い、身体的にも精神的にもよくない影響が出る。」が代表的です。 このような賛否両論をひとつ上の次元でとらえてみると、次のようなことが見えてきます。「より良いテストのあり方とは?」 この問いには、テスト擁護論者の方も反対論者の方も真剣に考えていただけます。テストの例を最初にあげましたが、部活動や高校受験もこのあたりの観点で見直すことができればよいのではないでしょうか? そして、制度上のことではなくて「中身の問題」を考える習慣がつけば、自然に「中学生とは?」「現代社会とは?」の問いに発展することでしょう。 そのぐらいになってようやく、今現在中学生である子供たちの、生の声を聞くことができるのではないかと考えます。 なぜなら、中学生は制度上の体験などないのですから。リアルタイムに成長しつづけている一人ひとりの人間なのです。 |
中学校に入学したばかりの子供たちは友達作りで精一杯です。名前と顔の一致しないクラスメート。仲のよかった友達と離れ離れになって、会いに行くにも校舎を冒険です。すれ違う人たちに作り笑いをしたり、目をそらせては自分の気持ちを落ち着かせることに気をとられてばかりいます。
ようやくたどり着く友達のいるクラスですが、ここにもおおぜいの気を使う対象がいて、自分が自分でないみたい。でも面白いものですね。誰かの呼ぶ声がしたり、意中の相手ではないけれど知り合いに自分のほうから声をかけたりしています。 そんなことばかりして時間を全部つぶせるわけではないのに、休み時間のにぎやかさがかえって寂しさを大きくして、気ばかり使い果たして放課後を迎えるのです。 この細々とした呼びかけに少しずつ反応があると、そこを基地にしてまた他の新天地へと向かってゆきます。こじんまり自分の席に座っていれば、「地縁」の友達ならばできるだろうに。 子供たちの元気さがそれを許さないのです。全身全霊とまでは行かなくても、自分にとって生きるか死ぬかの瀬戸際とばかりに、冒険の範囲は広がりつづけ、大半の子供たちが自分の「住所」を学校内に設けてしまうころ、亀のようなゆっくりとした動作でしか行動できない子供がひとり叫びます。ちっちゃな、ちっちゃなコエで。 「ここにいるよ。忘れないで」 |
小・中学生向け月刊誌は内容が満載で本当に楽しみでした。科学と学習、中1〜3コース、中1〜3時代。学校で注文を集めることもありました。 はじめに授業を先取する内容のポイント説明が特集され、特に定期テストシーズンになると予想問題が載っていてとても参考になりました。あれだけでもずいぶん学力が身についたものです。 アイドルを中心に芸能界の話題も豊富でした。女性は天地真理、浅田美代子、山口百恵、キャンディーズ。男性は郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎、ベイシティ=ローラーズなどがトップアイドルでした。 雑誌中央部の上質紙でない部分に投稿作品や青春相談のコーナーがあって、読者参加型の企画も大変まじめな内容でした。僕も何度か投稿して載せていただきました。 波紋(一部省略) 赤とんぼが一つ川面をなで波紋が一つ美しく育って大きくなった。 私はあえて石を投げ波紋を破壊しようと試みた。 次の瞬間、もっと大きな波紋が生まれた。 私は波紋を尊敬している。波紋のように失敗にくじけず生きていこうと決心した。 これは中3コースの入選第二席でした。選評、「ユニークな作品でした。自分の感情を直接的に表現しなければ、特選の可能性がありました。」これには子供ながらも大いに気分をよくして、そのエネルギーは今日まで燃え続いています。 学研の付録にも思い出があります。天然資源の標本をみて、天然ゴムの甘い香りに酔いしれました。ボーキサイトの粉末を見たのは、それが最初で最後でした。 学研の付録の影響で、中3のときには、自然破壊をテーマにしたポスターを展覧会に出したり、新聞記事から赤潮に関するものだけをスクラップブックにまとめて図書館に採り上げられたりしました。 月刊誌といえば、明星と平凡は芸能情報誌でしたし、ロードショウとスクリーンが映画情報誌でした。ジャクリーン=ビセット、テイタム=オニール、ロバート=レッドフォードなどあげればきりがないほどのスターがいました。 漫画雑誌、少年ジャンプ・マガジン・キング・サンデー、マーガレット、リボンなどが隆盛を極め、現在活躍されている巨匠の若手時代の作品を読めたのは大変幸運な時代でした。 しかし、その意味では、現代も大きな時代の幸運が訪れています。それはなぜかというと、このページを見られている、パソコン・インターネットが胎動期から次のタームへと進行しているからです。どのホームページを見ても、現実社会の情報を超え始めています。身近なデパートよりも豊富な品揃えのマーケット・ショップ。毎日読んでいる新聞紙より速くて詳しいニュースサイト。なかなかできない友達が、距離と時間の壁を超えて見つけられる、コミュニティサイト。 これらの追い風に乗り、未来の巨匠を目撃する時代に生きていることがものすごくラッキーなのです。もしかしたら、これを読まれているみなさんと僕が巨匠になるかもしれないのです。そしてその期待感だけでも忘れずに、ご自分の人生の糧として活かしていただければ、作者としてこの上ない喜びを享受させていただくことができるでしょう。 |
2年生になると忘れてしまう気持ちがあります。それは1年生のときの気持ち。放課後が近づくとおなかが痛くなるのです。バスケットボール部の基礎練習は腕立て伏せや空気いすなど、筋力トレーニングから始まり、準備運動代わりに1500メートルほど走り、それから本格メニューです。
ドリブル、パス、ランニングパス。ボールを触れるのはこれくらいで、1年生は基礎の毎日。きついのは練習だけではありません。先輩のいろいろな要求に対応しなくてはなりません。買出しに行かされたり、挨拶や返事の練習も必須です。 かっこよいプレーをしたいという気持ちがどれだけ強いかどうかで、このような規律への適応が決まります。にわかに襲ってくる拒否反応。おなかが痛くなるのはその子供の無意識下の防衛本能かも知れません。 夏休み頃になると、やめる人はだいたいやめています。根性がないのでしょうか?子供でも、このことについては大いに悩みます。耐える力、自分の能力を高める努力は部活動以外にも求められます。 しかし、実際におなかが痛くなるという反応は、自分の過ちに対する反応なのでしょうか。それならば、人は毎日おなかが痛むことでしょう。どうして痛くならないのでしょうか? バスケットボールをやめて陸上部に入り、突然やる気が出てきました。練習量はひけを取りません。基礎トレに関してはそれが仕事の陸上部ですから、むしろハードです。 日曜日、練習が休みの日にもグランドを走る子供たちがいます。高齢者のジョギングを思い起こさせます。70歳の人にとって、ジョギングは楽しみの一つですが、陸上部に移籍した子供にとっても、それは張り合いの一つなのです。 集団競技のチームワーク、規律から学ぶことは確かに多いです。自分本位ではなくチーム本位の考え方は自分を律するという意味で優れています。が、そもそもいったい誰のためのチームなのでしょうか。 これについては後述させていただきます。 |
犬も鳥も生まれたばかりのころは同じなのだと思います。お母さんの産道を経て外の世界をはじめて感じたとき、最初に感じるのは寒いということです。 なめられたり、洗われたりして、どんどんと乾いていく皮膚と体毛。気化熱が、まだよく調節できない子供の体温を奪います。そのとき温めてくれるのが、親だと信じて子供は完全に身をゆだねます。 このころの子供の大脳と体は完全に一致し、分離していません。体に感じることが、言語も知識も経由しない、直接の感性となって貯蔵されていきます。だから、生まれたばかりの子供を抱いて温めるという営みは、省略することのできない子育ての始まりです。 亀や蛇それに魚などの、産みっぱなしの卵は、親の愛情を受け継がないのでしょうか?いいえ、彼らは個体の親ではなく、自然という親に育てられているのです。 親であれ、自然であれ、子供にとって胎内の環境を維持してくれるもの、代わりなってくれるものが親であると私は考えています。脳を含めて身体が成長し、ある程度自立的な生存への自信がつくと、子供は親から離れていきます。 親離れするまで、子供には自信が備わっていないのだと、言い換えることもできましょう。それは行動と言動を見ればわかりますが、判断するのはあくまで子供自身であり、判断を促すのが親の役割と言えるかもしれません。 乾いた肌と、低下しやすい体温を守っていくうちに、子供は視力を獲得します。 「私はおそるおそる目を開くと、そこにはまぶしい光が、待っていました。薄目でしか見られない、ガラス越しの日光。目を閉じると赤や緑の残像が、まぶたの裏で大きさを変えて揺れ動きます。」 「ぼやっとした姿はお母さんでしょうか。それともお父さんでしょうか。多分まだ、視力ではなく、柔らかさで判断していました。」 視力。それにおびえることはありませんでした。光が熱を持ったものであること以外、理解するというよりは、全てを受け入れ、ここで生きていくということを悟ったようなものでした。 父母がけんかをすれば、目にするのは涙と怒りの表情だったかもしれません。それをありのままに見据えて、子供は全てを受け入れます。ただただ、温めてくれるはずの人が自分を置き去りにし、忙しそうにしています。保護者の心のやり場が、自分にないこと感じ取ると、子供の関心は、「外界」の仕組みをそのようなものだと理解し始めるでしょう。 目を開いたときから、子供は全てを見ているのです。だっこの多少は、単に甘え要求する行動ではありません。はじめてみるもの全てを、人生の心の地図として描く時期に、マッピングほどその子にとって大事なことはないでしょう。 安全で心地よいところに戻りながら、世界を広げていこうとするとき、ベース基地が見えなくなるほど大きく育つまで、2000年代の子供は約30年かかると私は考えています。 |
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