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百貨店の写真

今井藤七

丸井今井百貨店創始者

今井藤七

嘉永2年(1849)12月24日
新潟県三条市上町の生まれ藤七23歳の明治4年4月弥彦神社に詣で、30歳まで結婚しないこと,40歳まで絹物を身にまとわないで頑張ることを誓い、北海道での成功を祈願し,新潟港から松前通いの和船で渡道した。明治5年5月1日札幌の創成川畔に小間物商開業し「商道は正道であり、商(あきない)は飽きないことである。そして、商売は自分だけの為にあるものではなく、人の為に成るものでなければならない。」とし信用と繁盛をもたらした。明治の激動期に裸一貫で渡道し、その生涯を信用と誠実と不屈の努力で北海道の商業界に丸井今井の王座を築き上げ、多くの人材を養成しては開拓途上の枢要の地にそれぞれ独立営業させ、北海道の消費流通業界に大きな貢献をし、また密かに社会公共事業に尽くして、しかも官爵の栄達を望まなかった今井藤七は北海道に偉大な足跡を残して大正14年10月24日 東京目白の自邸に於いて眠るが如く波乱にとんだ生涯を閉じた。藤七77歳であった。11月3日郷里三条の菩提寺定明寺に於いて本葬を営み祖先累代の墓地に眠る。

 

今井雄七 

丸井今井百貨店二代目

今井雄七


 
明治11年(1878)4月30日藤七の弟武七の子として三条で生まれる。藤七翁に子供が無い為、養子となる。慶応義塾卒業後渡米し,丸井今井に新風をもたらせ、百貨店開設に大きな役割を果たす。明治、大正、昭和の変換極まりない三時代に丸井今井の近代化と発展を計るかたわら母校慶応義塾理事、三条市商工会議所会頭の公職を歴任、郷里三条市に対しては三条武徳殿を建設寄贈するなど公共事業に尽力し、北海道では開拓の一翼を担う。就任後26年の長きにわたり、創業者の意を体し、大正、昭和にかけての経営に大きな功績を残した。昭和19年12月19日、東京目白の自宅で喉頭がんの為死去。雄七67歳であった。苛烈な空襲下、葬儀は自宅に於いて近親者のみで告別式を行ない、郷里三条菩提寺定明寺で本葬を営み、関係会社全従業員並びに相談役ほか遙かに哀悼追慕の黙とうを捧げた。
 
今井道雄
丸井今井百貨店三代目

今井道雄

大正4年(1914)1月24日札幌の生まれ。北海道百貨店業界の雄東京商科大学(現一橋大学)卒業後、大阪大丸百貨店で経営の基礎を身につける。二代目雄七のあと44年の永きにわたり丸井今井グループの総師として活躍。札幌商工会議所会頭・札幌観光協会会長など北海道経済の重鎮として北海道の発展に貢献。北海道を想い、店を思い、人を想いつづけた。平成2年9月4日札幌医大病院で入院中心不全のため死去。享年75歳葬儀は会場に入りきれないほど溢れた参列者の献花が粛々と行なわれ長蛇の列がつづいた


   

三条市丸井今井邸
国登録有形文化財
北海道丸井今井百貨店創始者今井藤七翁の屋敷
新潟県三条市本町3丁目7番8号  
 
 
 
 
 
 銅像
 樽邸今井良七        本邸今井藤七    函邸今井武七
今井三邸銅像三条へ帰る
 
 定明寺
札幌丸井今井関係者 三条定明寺へ
 
今井 
 
三条水害義援金丸井今井100万円寄付  
 
三条水害義援金室蘭栗林商会グループ8社30万円寄付 
 
札幌 富士クリーン今井さん今井邸に寄付金
 
札幌県人会今井邸に寄付金 

北海道の三条市出身著名人

北海道開拓者 松川弁之助


 
北洋漁業の開拓者 堤清六

北の海運王 栗林五朔
 


イベントの写真

屏風展の写真

お茶会の写真

子ども教室の写真


雪割草とセッコク




火災復旧の写真 

三条小学校千羽鶴  

第三中学募金活動で


外観




玄関

廊下


中2階の部屋


中2階へ

トイレ

神棚

事務所

裏庭

屋敷の写真

保存運動の概略

その経過


 ボランティア活動
 
 
 
 
 
丸井今井百貨店創始者 今井藤七翁の生い立ち 

   新潟県三条市上町の生まれ。今井藤七は嘉永2年12月24日(1849年)今井七平の六男二女の三男として生れた。しかしながら藤七の少年時代は今井家の苦難を一挙に背負った苦闘の時代であった。今井家は6代にわたり町総代を務め三条では指折り数えられる旧家であった。
藤七12歳のとき三条の大火(上町塗師屋火事)で家を失い、翌々年大水害が起きた。火事で羅災したときは寺小屋に通っていたが、このとき寺子屋をやめて長岡の竹屋吉兵衛店に奉公に出た。そして、今町の河内屋要吉は利発で実直な藤七に惚れ込んで15歳の春、藤七を養子に迎えた。
翌藤七16歳のとき父七平は剛直な性格がたたって奉行所役人の反感を買って無実の罪で投獄される。藤七は早速、養子先より実家にもどりその日から母と13歳の武七、10歳の良七を抱え生計を担う。藤七は必死であった。早朝から起きて、近村を駆け回り米や大豆、小豆等の雑穀を買い歩いて帰り、それを販売し母・弟を養い、雨の日も風の日も雪の日も、一日とも欠かさず父七平への差し入れに通い、父を慰め励ます藤七であった。
やがて明治維新となり無実の罪に問われて牢獄にあった父七平も釈放された。この年、藤七20歳、家運をたて直すことは用意ではなかった。

藤七は、将来の北海道は必ず有望な新天地、家運の挽回をかけて渡道を決意する。当時北海道といえば多くの人は寒冷、積雪、熊とアイヌしか住んでいない未開地としか認識していない。二度と生きて帰れないかも知れない遠隔の地、藤七の決意を聞いた七平も初めはなかなか承知はしなかったが、藤七の堅い心の奥を知って遂に折れこれを許した。藤七は出発を前にして弥彦神社に詣で、30歳まで結婚しないこと、40歳まで絹物を身にまとわないで頑張ることを誓い、北海道での成功を祈願した。
藤七23歳の明治4年4月家族の見送る中、別れを惜しみながら新潟港から松前通いの和船で渡道した。函館に着いた藤七は、1年間陶器商、武富平作の店に奉公した。協力者高井平吉を得て、翌明治5年4月29日念願の札幌入りを果たしたのであった。藤七24歳であった。

明治5年5月1日(太陽暦では6月18日)創成川畔に小間物商を開業した。薄利多売を営業方針とした為開店2ヶ月で全商品を売り尽くした。こうしたことから店舗を拡張する必要に迫られ、函館で金策して商品を仕入、これもたちまち売りさばいて、借金は1年後にはきれいに返済した。藤七はこの1年のうちに、しっかりとした商業道徳を確立したのである。「商道は正道であり、商(あきない)は飽きないことである。そして、商売は自分だけの為にあるものではなく、人の為に成るものでなければならない。」とし信用と繁盛をもたらした。
開業2年後の大不況のときも、藤七はお客様を待つよりは出向いていこうと自ら商品を背負い、各村落を回り行商をして歩き商売を続け、努力と信念で開拓史時代の最大の危機を耐え抜いた。

明治7年、藤七26歳、独立して現在の札幌市南1条西1丁目に新店舗を構え、呉服太物と雑貨金物類を扱った。札幌はまだ不況であったが行商中顔なじみとなった各村落の人々がよく買い物に出てきてくれてにぎわった。その年9月19歳になった末弟の良七も三条より札幌入りし、兄藤七を手伝う。開拓使庁は丸井今井を「御用商」に指定し、「今井藤七なるもの、世の常の御用商人にあらず」と評した。
明治8年10月、藤七27歳、藤七は北海道へ渡るときに父七平と約束した通り、5年目に故郷三条に帰り両親を喜ばせた。成功した藤七の顔を見た父七平は安心して気が緩んだのか、ふとした風邪がもとで家中の手厚い看護の甲斐もなく、不帰のひととなってしまった。享年68歳であった。孝心深い藤七は、悲痛の余り食事もとれなっかたという。翌明治9年1月まで三条で過ごし、暗い思いで札幌にもどった。2年後の明治11年30歳で帰郷し、三条の鈴木半左衛門の三女すて子と結婚する。
藤七三兄弟力を合わせ店の発展を期す・正札販売制を実施
翌明治9年9月次弟の武七が渡道し、ここに創業三兄弟が始めて揃い、三者一体の強力体制ができあがった。
明治12年1月20日、藤七31歳、全商品正札販売制を実施した。この頃かけ値なしの正札販売制は全国でも少なく、大人が買いにいっても、子供が買いに行っても値段に変わりなく、小さな子供でも安心して買い物にやれる店は丸井だけと人気を呼んだ。店勢はますます伸び、特に他店に先んじての東京直仕入商法は丸井を一挙に最優位に立たせ、毎年店舗の拡張は更に客を呼び、明治16年、藤七35歳、には店舗の大改築を行っている。丸井の信用は日に日に厚く早くも丸井さん、今井さんとお客様から呼ばれるようになった。

明治24年、藤七43歳、創業20周年を迎え武七、良七との約束を果たす為、次弟武七を小樽色内町に丸井今井商店を独立、末弟良七には翌明治25年、函館丸井今井商店を開店独立させた。このことがあって店内では藤七を本邸、武七を樽邸、良七を函邸と称した。明治31年、藤七50歳、兄弟の資本合併による合名会社組織をつくる。さらに大正8年、藤七61歳、株式会社に改組発展し、今井雄七社長就任。今日の小樽支店、函館支店となる。

本邸 今井藤七逝去
大正14年10月24日午前2時 東京目白の自邸に於いて眠るが如く波乱にとんだ生涯を閉じた。藤七77歳であった。

明治の激動期に裸一貫で渡道し、その生涯を信用と誠実と不屈の努力で北海道の商業界に丸井今井の王座を築き上げ、多くの人材を養成しては開拓途上の枢要の地にそれぞれ独立営業させ、北海道の消費流通業界に大きな貢献をし、また密かに社会公共事業に尽くして、しかも官爵の栄達を望まなかった今井藤七は北海道に偉大な足跡を残して逝ったのである。葬儀は10月28日東京谷中斎場で密葬に付し、11月3日郷里三条の菩提寺定明寺に於いて本葬を営み祖先累代の墓地に眠る。
札幌では10月28日中央寺で追悼会を営み、参会者700人が参列、特に札幌商業学校生徒520名が境内に整列し母校開設に尽力した故藤七の霊前に「哀しみの曲」を吹奏し、葬客一同思わず襟を正し、万座粛として声はなかったと当時の模様が記されている。


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”北海道開拓者” 松川弁之助




1802−1876
  北えぞの
沖こぐ船に浮寝して
果てのかぎりを月に見しかな

1802年(享和二年)井栗の大庄屋である松川三之助の六男として生れた。弁之助が二十七歳のとき三条大地震、七年後の天保六年、三十四歳のときに天候不順で大飢饉となる。平常は質素な人であるが百姓、窮民を助ける為財を惜しまなかった。諸兄が若死にし、父三之助が病に倒れたので1843年(天保十四年)の四十二歳で家を継いで大庄屋となる。
当時の三条は打ち続く災害のため生活に苦労する農民が多く、人々は新天地の開拓を願っていた。弁之助は父の志を継いで北海道開拓を計画し、1850年(嘉永三年)に長男和三郎を北海道へやって地理風俗を調査する。
1855年(安政二年)に庄屋を和三郎にゆずり、開拓を政府に申し立てた。この年、英艦隊函館に入港し蝦夷地警備の必要性から弁之助は御用取扱方に任命される。弁之助は先ず尻沢地方を開拓。勤勉で不倒不屈の三条人は東オポチョカ漁場をひらくが漁獲量も少なく、1859年(安政六年)函館に引き上げる。
その後函館付近の開拓を続け、戊辰戦争の戦場となった五稜郭の工事を請負い、松川町の名を残す。1862年(文久二年)松川弁之助は家代々の資産をことごとく使い果たし、開拓事業から手を引き帰郷する。弁之助の夢は結ばれなかったが後世に三条商人の北海道進出の先鞭となる。

帰郷して十四年後、明治九年七月に七十五歳でなくなり井栗の福楽寺で葬儀。(南蒲原先賢伝)(北越名流遺法)

箱館戦争の舞台 五稜郭
わが国最初の洋式城郭。五つの稜が星型に突き出ているため五稜郭の 名がある。幕府が北方防備のために弁天砲台(函館ドック付近)とともに安政4年(1857年)から7年がかりで築造しました。ヨーロッパの城を参考に蘭学者、武田斐三郎が設計。鉄砲など近代兵器に対処できるようプランを練りました。各稜に砲をおけば死角も少なく、砲火をあびせられるというわけです。 奉行所がありましたが明治5年に取り壊し、現存しているのは兵糧庫と井戸のみ。 
日本最後の内戦「箱館戦争」の舞台となったところで、明治元年(1868年)、大政奉還に不満をもった旧幕臣・榎本武揚、大鳥圭介らがここを占拠し、翌年5月に降伏、開城しました。彼らが抱いた「蝦夷共和国」建設の夢ははかなく消えました。
日米和親条約の締結、ペリー提督の来函などで蝦夷地の防衛の必要性を迫られた幕府は、箱館奉行所を現在の元町から移転し、洋式の城郭を建設することを決定し、有名な緒方洪庵の塾・適塾出身の武田斐三郎に設計を託し、松川弁之助ら豪商が工事を請け負った。 柳町の辺りは湿地帯で一度築いた石垣も冬が終わると、崩れてしまったそうで、私財を投じてようやく七年がかりで工事を完成させたという。
郷土史家中村正勝さんは、函館市民はこういう本当に偉い人を忘れてはいけません、と力説。真っ直ぐの高砂通りも弁之助が苦労して造ったという。中村氏の尽力で三百万円余が集められ、芸術ホールの向かい辺りに小さな石碑が建立されている。



 
 函館にある松川弁之助記念碑 

◆明治2年5月11日(現在の6月20日)、新選組 土方歳三 が最後に駆け抜けた松川街道

五稜郭を背にして立つと、港までほぼ一直線の道が続いていました。「今は高い建物があってわかりにくくなっていますが、昔は函館山を正面に、まっすぐの道が見通せたと思いますよ」。この道は、港から五稜郭築造の資材を運ぶために作られたもので、工事にかかわった松川弁之助の名前をとって「松川街道」と呼ばれていました。
 
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”北の海運王” 栗林五朔



 

1866年(慶応二年)三条西大崎の栗林得太郎の長男として生まれ、室蘭市発展の基を築いた功労者。五朔は幼少より学才に優れ大崎の宝蔵院の小学校を卒業し、明治9年の11歳のときに新潟英語学校へ入り三年学ぶ。そして三島郡の青莪学舎に於いて青柳剛斉などから漢学を学ぶ。
明治17年の19才ののきに父と死別して祖父・母・兄弟の6人を抱えて家業の製紙業を継ぐ。しかし父の偉業はうまくゆかず支配人に託して単身上京する。五朔は日本橋の新潟物産東京支店に入社して簿記学校に通う。1年余りで新潟本社にもどり、手腕を発揮して実業家を夢見る。明治19年に憲法起草と条約改正の世論が高まり、在野の民抗各派の大同団結と党勢拡張のために後藤象次郎が県下を遊説する。五朔は民権運動に刺激され、叔父の鈴木長蔵が発行している新潟新聞につとめる。当時の新潟新聞には市島謙吉が主筆として健筆をふるう。後に市島と鈴木社長が意見の相違をきたし、社長が新聞社を辞任することとなって五朔も退社する。五朔は退社して米相場をはり、儲ける。23才の明治20年に信濃川の改修護岸工事があり、その供給業をやる。余り調子に乗りすぎて失敗し廃業する。
失意のどん底の五朔に新潟の富豪市島徳次郎が北海道行きをすすめる。市島経営の函館にある油ロウ会社が経営不振となったので再建をはかるためである。二十四才の五朔は明治22年、大望を抱いて単身津軽海峡を渡る。函館に着いたときは懐中5銭しかなく、さっそく会社再建に奔走する。しかし退勢はどうにも挽回できずに会社封鎖となる。
不屈の闘志を持つ五朔は「若い北海道」の将来に一生の夢を託す。最初は先祖からの業である呉服商を営むことを考えるが資金が不足して無二の親友である中沢宗治郎と明治25年に室蘭へ行く。五朔は天然の良港である室蘭で資本のかからない酒や味噌醤油販売の栗林商店を開業する。近くに幕西遊郭があり、誠実勤勉に励み店は繁盛した。しばらくして日本郵船の室蘭定期航路開設されたので栗林商店を中沢宗治郎にまかせて五朔は室蘭代理店をやる。この頃、五朔は賢夫人といわれた「かず子」と結婚する。五朔二十八才であり,22才のかず子の内助の功は大きかった。
1年後に室蘭運輸合名会社を創立して海運業界に大きく進出する。業績が年毎にあがり明治42年には資本金5万円の栗林合名会社を設立する。会社は大正3年の欧州大戦の海運好況にささえられて大きく躍進する。また大正初期に登別温泉を10万円で買収して電灯をひき、登別軌道株式会社を設立して地域開発事業に力を入れる。大正8年に栗林商船株式会社を創立して取締役会長に就任し、本社を東京に移す。大正9年に室蘭土地埋立会社を興して港の整備拡張と地域開発に心血を注ぐ。
栗林五朔は大胆にして緻密の人であり、商才にたけた実業家であったが政治家にもむくという人であった。五朔は道会議員3期、大正9年に北海道5区より衆議院に当選2期つとめる。この間、床次竹次郎率いる政友本党の代議士会長として国政に重きをなし政治と事業の二面で活躍した人である。
 大崎中学校校庭における亡父「栗林得太郎頌徳碑」の除幕式に参列の為長男得一、二男友二をつれ故郷大崎の土を何年ぶりかで踏む。身一つから大実業家となった五朔は書画をよくし不及庵・專ケ・不求山人の号をもち、室蘭の今日を築いた人といっても過言でない。昭和2年5月4日、六十二才のとき東京で没す。
(栗林專ー翁追憶録、大崎村史)

「北の海運に栗林あり」

北海道の中央南西部・内浦湾(噴火湾)に面した一漁村だった室蘭は、1872(明治5)年に築港が開始されました。しかし、元来が天然の良港だったためさほど整備はされず漂砂が港内に流入して水深は浅く荷役のできる海域は限られていました。 1893(明治26)年、室蘭港は軍港に指定されました。しかし、住民は軍港指定に反対し、逆に翌1894年、特別輸出港の指定を獲得したのです。 軍港反対の理由は、室蘭・輪西〜岩見沢間に鉄道が開設され、石炭積み出し港としての前途が開け始めたばかりだったからです。やがて製鉄・鋼業が立地し、東北・北海道最大の工業港として発展をつづけ、第二次大戦後も商工業港として、工業立国を目指して高度経済成長の道を進んだ日本の発展に大きな役割を果たしました。 
その室蘭港の発展に多大な貢献をした人が、栗林商会(本社・室蘭市海岸町)の創設者である栗林五朔氏です。氏は新潟県で代々呉服商を営む家の長男に生まれました。しかし、18歳の時に当主である父が早くに世を去ったため家業はきびしい状態に陥っていました。そのため氏は、後事を支配人に託して上京。簿記学校へ通う一方、叔父などの経営する物産会社、新聞社などに勤めていました。そんな時、経営不振にあった函館の油臘会社の再建を頼まれ、初めて北海道の土を踏みました。1889(明治22)年、24歳の時のことです。その時、若き氏の手には五銭玉一枚が残っているだけだったといいます。 氏は、原料の魚油を求めて西海岸一帯の漁村、利尻礼文にも足を延ばす一方、販路拡大に道内奥地や東京へと駆けめぐりましたが、退勢ばん回の実は容易にあがりませんでした。 そんな時、生涯の協力者となる同郷の中沢宗次郎氏とめぐりあい、まだ寒村に過ぎなかった室蘭の将来性に二人の夢を託し、独立自営の地と決めました。
 1892(明治25)年、資金力のない二人は、まず酒の小売店を開業しました。ちょうどそのころ、日本郵船の青森〜函館定期航路を室蘭まで延長する動きがありました。「これからは海だ」との展望をもっていた氏は、その取次人(代理店)の指定を獲得しました。そして、室蘭回漕業の草分けである蛯子源吉氏と共同で室蘭運輸合名会社を設立して社長に就任。北海道炭礦鉄道会社が室蘭港から石炭積み出しを開始するようになると石炭荷役に進出して大発展を遂げ、
「北の海運に栗林あり」といわれるまでになります。 石炭、運送、郵船を統合して栗林営業部を発足。1919(大正8)年には(株)栗林商会、栗林商船(株)を創立して営業を両社に配属させました。
一方、大正初期に
登別温泉の買収を依頼されて温泉経営に乗り出し、登別温泉軌道(株)を設立して温泉までを馬車から馬車軌道に、そして発電所を開設して電車を走らせるようにしました。氏は実業の理想を「船と鉄と牧畜」において室蘭郊外で牧場も経営。政界にも進出して巨人的な活躍を展開しました。 氏の経営は徹底した合理主義で、切手一枚使うにも支配人の検印を受けさせて自分も目を通すほどでしたが、「一粒のソロバン玉をはじくのも国家のためである」との理念をもち、第一次大戦後の恐慌時代、天皇の救済金をもって公設市場を開いて庶民の窮乏を救い、夫人は欠食児童のために握り飯70人分前後を2カ月間も送り届け、貧しい向学青年には奨学金を贈りました。 晩年、本輪西埠頭の開発に心血を注ぎました。その大事業を一民間会社が成し遂げ、のちに特定重要港湾(1965年指定)となる基礎を築きました。第一期分の埠頭は1929年(昭和4)年に完成しましたが、氏はそれを見ることなく1927年に肝臓を病んで世を去りました。

室蘭神楽(むろらんかぐら)(郷土芸能、室蘭八幡宮)

 室蘭八幡宮や御傘山神社の例祭に奉納されている神楽(室蘭神楽)は、新潟県の三条市一円で行われている「三条神楽」(新潟県の無形文化財指定)の伝統を受け継ぐものです。現在の記録では、大正14年、三条市西大崎の中山神社から怜人(れいじん:楽を司る人)2人を招き、松崎互蔵(徳一)、南谷初太郎をはじめ、地元の同好者に舞を仕込んで伝授されたことになっていますが、室蘭神楽保存会の調査によると、それより先、明治34年ころから、当時、神社に積極的な力を入れていた栗林商会の開祖 ・栗林五朔翁が、
生れ故郷の西大崎の中山神社から怜人を招き、毎年の例祭に奉納していたのが、そもそもの始まりだと言われています。舞は、32舞からなっており、お供獅子舞とは逆にテンポの静かなゆったりとした能舞に近いものです。 現在の面や装束は、昭和15年の紀元2600年を記念して、栗林徳一社長から、2,600円の寄付によって備えられたものです。この伝統保存のため、地元愛好者によって「室蘭神楽保存会」が結成され、会員が保存に当たるとともに、同好の子供たちに継承するため、懸命な練習が続けられています。

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”北洋漁業の開拓者” 堤清六




1880年(明治13年)上町の呉服商7代目堤清七の長男として生まれた。清六は二千数百戸を焼失した三条大火の年に生れ、三条復興の中で育った。祖父の清七は呉服仕入の上京中に亡くなる。そして祖父亡き後、父は商売熱薄く清六が呉服の商売を一人で切り回す。
明治37年に日露戦争がはじまり、友人が徴兵されると元気者の清六は軍の酒保に志願する。当時は国中、興奮状態で24歳の清六も安閑としておれずに酒保として、渡満したのである。
戦後の明治39年に日本の発展は海外にあると悟り、シベリア貿易を夢見て代々の呉服店を店じまいする。そして僅かな雑貨見本をもって黒龍江流域の視察をするため、初夏の三条をたつ。清六が黒龍江下流のブロンゲ岬にたどり着いたところで、漁夫20人をつれて鮭買いに来ていた平塚常次郎と出会い、意気投合して一夜を語り明かす。平塚常次郎の北洋漁業にかける夢に清六は感激して決意する。そして北洋漁業の開拓について誓い合い帰郷したのである。
清六はまず反対する家族はじめ親類の説得にかかり、新潟の叔父清吉、三条の親戚代表小出勇助の賛成を得て、資金12500円を集める。明治40年の春、5700円で163トンの帆船宝寿丸と必要物資を買い入れる。そして6月4日に清六と平塚は人夫を従え、カムチャッカ半島のウスカム川の漁場を目指し新潟の突堤から出帆した。船は48日、荒波にもまれて目的地のウスカム河口に着く。平塚が契約しておいた紅鮭を買い付け、持参アルコールを毛皮などと交換する。それを函館の海産物市場で売りさばいて新潟に帰る。
清六は三条出身である新潟の海産物商田代三吉らの援助を得て新潟の叔父清吉の軒先に堤商会を設立した。そして翌41年には喜多丸を傭船して二艘で買い付けに行く。ウスカム川の紅鮭は無尽蔵であったので業績は飛躍した。そして北洋漁業に詳しい郡司成忠大尉の助言から清六は鮭缶製造を企画する。明治43年に水産講習所の鍋島技師らの協力を得て、鮭缶詰の製造に入る。それをロンドン・上海で試売したところ、大変な好評をうけて海外にひろまる。明治45年に清六の妹芳子が平塚常次郎と結婚する。清六はカムチャッカ西海岸のオゼルナヤに最新式の缶詰工場を新設したので大正2年には生産高が2万8千6百箱となる。これは国内鮭缶の35%を占めた。
大正3年に第一次世界大戦となり、空前の戦争景気を呼んで食糧増産の一翼をになう堤商会は活況を呈した。ところが当時のロシアも漁業権益の確保にのりだしてきて、トラブルが続く。それで清六はウスカムから手を引きオホーツク・オゼルナヤ・キシカ・北千島の豊城川など13ケ所の漁場に力を入れる。また設備の改善につとめたので生産高は鮭・鱒缶詰で12万4千箱となり、米・英・欧それに中国に販売する世界的な生産会社に成長した。
大正6年にロシア革命がおきて北洋漁業を守るため清六ら漁業関係者は企業合同の検討をはじめる。大正9年に堤商会は輸出食品株式会社を合併して極東漁業株式会社と改称する。翌10年には勘察加漁業・日露漁業と極東漁業が合同して資本金2570万円の新しい日露漁業株式会社を発足させて清六が会長、平塚常次郎が常務となる。また、政府の力で北洋漁業を守るため、同業者の佐々木平次郎を大正6年に函館から政友会代議士として国会に送る。大正13年に清六は三条から立候補して代議士となり、貴族院・衆議院の240名で水産同志クラブを結成して、国策として水産行政の基礎を固める。昭和5年政界から引退。
昭和6年灸あとの化膿から病気となり、東京聖路加病院で亡くなる。行年52歳の若さであった。事業は平塚常次郎によって継承され輸出産業の雄として発展する。
生家は三条市に寄付し現在「蒼龍庵」と称して保存されている。
(越佐が生んだ日本的人物・越佐大観)


 
明治、大正から昭和にかけて北洋漁業の開拓に尽力し、水産加工品商社ニチロの前身、日魯漁業株式会社の初代会長となった三条市出身の故・堤清六氏の功績をたたえようと、地元の有志が同市本町一の生家跡に記念碑を建立した。二十五日、関係者ら約六十人が参加して除幕式が行われた。 明治十三年、同市の呉服商人の長男として生まれた堤氏は、同三十七年の日露戦争をきっかけに貿易やロシア領沿岸漁業の将来性に目をつける。二十五歳のときポーツマス条約によって日本が漁業権を獲得したロシア沿岸への出漁を決意、当時無尽蔵とも言われたサケ・マス漁で成功を収めた。 また豊漁による価格暴落を防ぐことなども目的に缶詰事業にも進出、沿岸はもとより西欧への輸出を伸ばし同社の基礎を築いた。  漁業とは無縁だった町に生まれながら、苦難の資金集めの末、北洋に挑んだサクセスストーリーは、地元でも若い世代から忘れ去られようとしていた。何としても後世に伝えたいと有志が立ち上がり、一年がかりで寄付を募った。 生家跡は現在ミニ公園として整備が進められ、当時の建物の一部は地区の集会場となっている。昭和四十二年に設置された胸像わきに完成した記念碑は、高さ約九十センチ、幅約百三十センチ。黒御影石の表面には波乱に満ちた堤氏の生涯についての解説が刻まれている。 除幕式には長谷川長二郎市長をはじめ有志代表、ニチロ社員のほか堤氏の親せきも駆けつけた。除幕に続いて法要も営まれ、訪れた市民らは次々と手を合わせていた。 記念碑を建立した有志代表の渡辺宏作さん(71)は「堤さんは今で言うベンチャービジネスのはしりなのでは。世界に目を向けて次々と大きな仕事を成し遂げた実績を多くの人に知ってほしい」と話している(98/4/28)。

日魯漁業(現ニチロ)創業者
ポーツマス条約によって日本が漁業権を獲得したロシア沿岸でのサケ・マス漁に着目し、1906年、新潟市東堀前通七番町に「堤商會」を創業。1910年、鮭缶詰(後の「日魯のあけぼの印の鮭缶」)の製造を開始。堤商會は「極東漁業株式会社」に組織を拡大、1914年「日魯漁業株式会社」を函館に設立し、会長に就任。その後、衆院議員を2回歴任。1931年死去、戒名は「淨雲院清譽慈海蒼龍大居士」。三条市本町三の極楽寺には業績を偲んだ石碑があり、篆額を書いたのは、陸軍大将、参謀総長を歴任し、当時枢密顧問官の職にあった三条出身の鈴木荘六。衆院議員・参院議員・新潟県知事を歴任した亘四郎は堤清六の実弟。

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