戦後まだ日本各地に残っていた旅芝居や大道芸。その中で、ひときわ異彩を放つのが三味線音楽を披露しながら村々を廻っていた「瞽女」たちだ。その多くは目の不自由な女性達であり、彼女たちは3〜4人で、一組となり、山や谷を越えて村人に民謡や流行歌、そして、よその土地の情報を運んでいった。1900年(明治33年)、新潟県三条市の川べりの農家で、小林ハルさんは生まれた。生後まもなく白内障にかかり、両目の視力を失ったことが、ハルさんの宿命を決定づけた。「外聞が悪い」と祖父は幼いハルさんをいつも奥の寝室に置き、母は厳しく裁縫を仕込んだ。そんな娘を不憫に思った父親は、人目を盗んでハルさんを抱いたりしてくれたが、彼女が2歳の時、病でこの世を去った。母は口癖のようにハルさんにこう言った。「ハル、おらが死んだら、お前は一人で生きていかんならねえ。 辛いことがあっても辛いと言うな。腹減っても、ひもじいと泣いちゃならねぇ」そんな5歳の時、村にやってきた瞽女の親方に祖父はハルさんを弟子にするよう依頼。20年の年季奉公が決定したのだ。そして7歳の時から三味線の稽古が始まり、ハルさんの血のにじむような修行の日々が始まった。三味線を弾くハルさんの細い指を親方が押さえ込み、糸道を辿らせる。ハルさんの手はいつも血にまみれた。そして「寒声」と呼ばれる真冬の稽古は、毎日早朝や夜、川の土手に薄着姿で立ち、叫ぶように唄い声をつぶす。そんな修行に明け暮れるハルさんが、初めて親方に連れられて旅に出たのが9歳の時。小さな体に自分の分と、親方の分の荷物を背負って旅立つ娘を見ながら、母親がいつまでも身をよじって泣いていた事をハルさんが知ったのは後年のこと。瞽女としての旅は楽ではない。足のマメが痛かろうが辛かろうが、ひたすら山を谷を歩いて行く。新入りはご飯にもろくにありつけず、やっと見つけた宿にも泊めてもらえないことが幾度もあった。1年の300日を旅から旅へ、ハルさんの10代は瞬く間に過ぎて行った。少女から娘へと、女性へと成長したハルさん19歳の時、事件は起きた。若く芸達者となったハルさんに嫉妬した姉弟子が、ささいな事で逆上。ハルさんを突き飛ばし、そして体中を力任せに突いたのだ!治療をした医師はハルさんに、「子供の産めない体になった」ことを伝えた。悲しみも喜びも、女性としての情念も、旅の空にただ棄てていくしかなかった…26歳になり年季奉公が明けたハルさんは、晴れて独立。そんな時、思いがけない話が舞い込んだ。母親と死別した2歳の女の子を養子にもらって欲しいと言うのだ。ハルさんは喜んでその子を引き取った。「母ちゃん」…そう呼ばれる時の何とも言えない甘い思い…。 初めて味わう母としての幸せ。その時ハルさんの記憶が蘇った。これが実の母かと思うほど厳しかった母、しかし自分の死後、全盲の娘が一人で生きて行けるようにと、心を鬼にした母の本当の気持ちが理解できた瞬間だった。「自分は母に愛されていたんだ…」ハルさんが養母となって2年後、風邪をこじらせた養女は4歳の幼い命を閉じた。「本当に涙がこぼれるような事があっても涙隠してきた。 泣いてしまったら、唄になんねぇから。」30代、40代のハルさんは人に求められるままに唄い、どんな者でも拒まず弟子として引き取った。目が見えないものが生きるには、人に与えつくせという祖父と母の教えを信じるハルさんは、苦労を自分から買ってしまうのだ。「良い人と歩けば祭り、悪い人と一緒は修行。難儀な時やるのが、本当の仕事」…終戦後、高度経済成長の時代を迎えた日本には、農村の隅々まで車が普及。昭和48年のある朝、ハルさんは近所の神社にお参りをし一曲奉納。そしてこう言って手を合わせた。「瞽女は今日で、さよならです…」そんなハルさんが向かった先は、老人ホームだった。人に迷惑をかけず、居住まいをいつも正し、ひっそりと生きるハルさん。しかし最後の門付けをしているハルさんの様子を、テレビで放映した時のこと、研究者たちは未だに瞽女文化が死んでいないことと、ハルさんが克明に昔の唄を記憶していることに驚いた。そして昭和53年、ハルさんは瞽女文化継承者として、国の重要無形文化財、いわゆる「人間国宝」に選ばれた。「生きてみなきゃわかんねぇ。ほんに思いがけないことばかり…。」これをきっかけに、ハルさんは再び三味線を取ることになる。求められれば精力的に唄いに行き、人々に喜ばれる。ハルさんの新しい瞽女生活が始まったのだ。そんな昭和57年、ハルさんは周囲の勧めで、家を出て以来戻ることもなかった、自分の実家に里帰りをし、母の墓前に初めて立った。「おらの中に母さんは二人いる。 死んだ本当の母と、おらの中に生きている母と…。」全盲の闇の中から放たれる光、ハルさんの人生は決して一人のものではなく、亡き父母や祖父と一緒に巡ってきた旅だったのかも知れない…。
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