spacer.gif spacer.gif spacer.gif spacer.gif spacer.gif spacer.gif
有限会社坪源 新潟県三条市 墨壺の紹介 spacer.gif
三条市での墨壺の歴史 坪源の墨壺 墨壺のコレクション メールはこちらから トップページ spacer.gif

坪源と墨壺の歴史

日本唯一だった新潟県三条市の墨壺製造産業

sitann_tubo1.jpg

 現在木工工房として新潟県三条市にある坪源。創業当時は「墨壺(すみつぼ)」を専門に製造している工房でした。坪源の創業者は私の祖父、栗山源三です。三条市での墨壺製造のルーツは源三の祖父、栗山源資の時代までさかのぼります。
 時代は明治。新潟県三条市は、真ん中を南北に分かつように五十嵐川が流れ、やがて信濃川との合流点へとさしかかるという地理にあります。現在のような流通機関がない当時、河川を使った物資の運搬が流通の主流でした。五十嵐川上流の下田村より材木を切り出し、そのまま川を下らせて三条まで運び、そこで製材し建材や木製品を作るといった事業が盛んに行われていました。その当時、三条市で材木問屋を営んでいたのが栗山源資でした。新潟はご存じ通り日本でも有数の豪雪地帯です。今でこそ除雪や融雪装置が道路に完備され、冬も他の季節と同じように仕事ができますが、その当時、冬場には材木出荷をはじめ、仕事ができなくなりなります。思案した源資は、仕事のできない冬期間、出入りの大工たちに墨壺を作らせたというのが墨壺製造のはじまりでした。そして源資はやがて木材問屋よりも墨壺の製造を本業としていきました。

人類の歴史とともに

 さて、日本では江戸時代以前から墨壺というものはありまして、古くは正倉院の宝物殿にも保管されています。墨壺は元々中国で発明されてたものといわれていますが、実はそれよりも古く、文明発生の頃にはすでに存在していたのではないかなどと諸説入り交じっています。墨壺の基本的原理「ひもに顔料を染み込ませて、張った状態でたたきつけて線を引く」というのは世界各国にあったようですが、それを墨壺といった道具にして形作ったのは、中国らしいです。

美術彫刻墨壺の出現

 本来墨壺は大工が自分で作っていました。自分の腕を誇示するため様々な装飾を凝らせたものや、人柄をしのばせるような素朴なものまで百人百様でした。いつしかそれがエスカレートしていき、より複雑で芸術性の高い墨壺を持ちたがり、自分の腕ではとうてい作れそうもない美術彫刻墨壺などが流行りはじめます。そして江戸末期から明治にかけて、高級墨壺を作ることを専業とした職人が現れてきました。
 明治の終わり頃からここ三条でも美術彫刻を施こす墨壺職人が現れてきました。本来そのような墨壺は「粋」(日本で古くからおしゃれなことを意味する)を心意気とする東京や大阪、京都など都会で作られそうです。それがなぜか日本の片田舎、新潟県の三条市に日本でも珍しい「美術彫刻墨壺」の職人が集中する町となったのでしょうか。なんと最盛期には日本全生産量の八割以上が作られていたのです。
 これは栗山源資とその当時東京より流れてきた一人の墨壺職人との出会いから始まったものです。

kame_1.jpg

東京からの来訪者、坪清と栗山源資との出会い

 大正時代の終わりころか昭和の初めでしょうか。三条に一人の墨壺飾り職人が流れ着いてきました。号を「坪清」と言い、飾り彫刻専門の墨壺職人でした。彼は一人でこの土地へ来たのではなく、連れ合いがいました。あまり表向きにはなっておりませんがん、なにやら訳ありなようでした。そこで人を介して、墨壺職人をたくさん雇っている源資が坪清の身柄を引き取る事となりました。それが三条における墨壺への飾り彫刻の始まりです。
 見事に彫られた鶴と亀。墨壺の形状に合わせるように雲がたなびく胴体。彼の作り出す墨壺は決した過剰にはならず、かといって貧相でもなく、また、使用に支障をきたすような形状などはなく、実に洗練された機能美に満ちあふれていました。源資の元にいた墨壺職人達が競うように坪清の墨壺から技術を学び取ります。そこは坪清にも東京からやって来たというプライドもあるでしょう、三条の職人に負けじとその卓越した技量に磨きをかけます。
 このお互いの切磋琢磨が後の「日本唯一の飾り彫刻墨壺の生産地」となった要因です。

やがて一大地場産業へ

 元々仕事熱心が気質の三条人ですし、まして冬場は外仕事もなく室内で閉じこもり作業するしかないのですから、これほど土地の風土にあった仕事もなかったのでしょう。あっという間に彫刻墨壺の製造は市内に広がりました。
 また、それぞれが趣向を凝らし、分派や統合を繰り返していきました。その結果「栗山流」「竹之内流」「栗林流」と呼ばれる三流派ができました。このうち栗林流は現在途絶えてしまいましたが、竹之内流は現在でも彫刻墨壺を製造しております。栗山流はもちろん私ども坪源です。それぞれの彫刻の流儀にかなった形状が墨壺にはあります。またそこに個人の技量や意匠なども加わりますから実に多彩な文化となりました。

dragon.jpg

建築工法の変遷と墨壺の衰退

 日本のみならず、世界標準として建築工法が大きく変わったのは30年くらい前からです。2×4やプレカット加工といわれる、工場であらかじめ建材を加工して、建築現場でそれら部品を組み立てる工法が主流となりました。墨壺はだんだん使われなくなりました。また、それ以前から墨壺は巻き尺型で形態で便利なプラスチック製に取って代わっていましたから、木製墨壺はいよいよ需要がなくなりました。
 製材所ではすでにレーザーポインターとコンピューターを連動させて製材していますから、昔ながらの素朴な墨壺など必要ありません。やがて墨壺は、宮大工などのごく一部の需要をのぞいては全く使われなくなりました。三条に昔からあった墨壺の同業者組合もいつの間にか解散してしまい、いまではまれに受注生産、在庫販売などを細々とやっている状況となりました。
 それにしましても、いくら工法が変わったとはいえ、ここまで完膚無きまでに一つの伝統的工具が消滅してしまった例はないのではあるでしょうか?例えば墨壺と同様に昔ながらの大工道具として「さしがね」や「カンナ」などがありますが、決してなくなるものではありません。ノミやノコギリに関しては無くなるなんて考えられません。
 現在30歳よりも若い世代などでは「見たこともない」という方がかなり見受けられますし、実際にこのサイトをご覧になるまで墨壺を知らなかったという人も多いことでしょう。

彫刻墨壺は現在、美術工芸品として愛蔵されております

 すっかり衰退してしまった墨壺ですが、むしろここに来てその「美術工芸的価値」が評価し始められてきました。仕事で墨壺を使うというよりは、アンティークとして飾りたい。また昔大工をやっていたが現在リタイアしていて、昔使った道具をもう一度手元に置きたい。もっと面白い事例で、若い後継者に退職する棟梁が記念に墨壺をプレゼントするなどということもあります。実に「粋」です。  ぜひ日本国内だけでなく、世界の大工さん達に、日本の伝統工具「墨壺」を知ってもらい、彼らのお手元に「墨壺」を置いてもらいたいものです。

big_tubo.jpg

 かつて木製墨壺職人達がその腕を競っていた時代があったことが、人々の記憶からなくなってしまわないように...このサイトの存在する意味はそこにあります。(有)坪源 栗山嘉啓拝

有限会社 坪源
〒955-0061 新潟県三条市林町2-1-28 TEL (0256)33-3375 FAX (0256)36-4646
URL http://www.ginzado.ne.jp/~tsubogen/sumitsubo/ E-mail tsubogen@ginzado.ne.jp
copy right (c) 2004 Tsubogen co.ltd all rights reserved .