眼高手低 ~ あと1ヶ月でできること

◆自戒の念も込めて、「座右の銘」の1つに組み込みました。

眼高手低は、「がんこうしゅてい」と読むそうです。「そうです」とは、最近知った言葉だからです。その意味は、「理想ばかり高くて実行する力が伴わないこと。批評はうまいが創作力の低いこと。」(日本国語大辞典 小学館)です。辞書には幾通りの意味が書かれていていますが、それはそのまま見る視点の違いを表していると思います。この言葉の意味にも、2つのことが書かれていると思います。前者は「実行する人」の立場から反省する姿勢として受け取れます。後者は「評価する人」の立場から観察する姿勢としても受け取れます。

◆「目に見えない」ことにこそ大事なものがある。

先日、ある保護者の方から学級担任に「縄跳び大会」のことに関して連絡がありました。
「大会前なのに結果が思わしくない、と家で子供から話を聞いていた(お母さん)ので、心配になって見に来たところ、掛け声をそろえて跳ぶ姿を見て涙がでてきた」

私は、この話を聞いたとき、上に上げた「眼高手低」が頭に浮かび、反省させられました。

私たちの身の回りには沢山の「数字」が溢れています。「数字」はとても説得力があります。「〇〇回跳べて良かった」は、「頑張って跳んだので良かった」よりも、説得力があるように感じます。でも、全てが数字で表される訳ではありません。気づかないうちに、跳んだ回数の「数字」にばかり目を向けた、後者の「評価する人」の立場にいたことを恥ずかしく思ったからです。

きっと、この保護者以外の方にも、我が子の跳ぶ姿を見て、回数に一喜一憂しながらも、「数字」に表せない「成長」に大きな関心を向けられたと思います。

リズムよく跳んでいたのに、足を綱に引っかけてしまって「すまなそうな」表情になった子供が、次の順番の時に跳べて「ほっとした」表情になる瞬間。その子に「どんまい」「やったー」と声を掛ける別の子供の真剣な表情の瞬間。これは、「その場」にいないと「伝わり」ません。「数字」では表現出来ません。ビデオでも写真でも無理です。

◆「目に見えない」ものを絵画で表現したのは、画家のゴッホ。「聞こえない」音楽を音楽に表現したのは、音楽家のモーツァルト。どちらも天才です。でも、「天才」とは、「人に見えないものが見える」のではなく、「多くの人が普段見ていても気付かないものに目を向ける」ことができる人と思えば、上に挙げた保護者の方も「天才」だと思います。

◆「雰囲気でしか感じ取れない」子供の気持ちも汲み取る修行をさらに続けます。