5月22日(月)給食は「加茂軍議」メニューでした!
白米、ます塩焼き、干しかぶとたけのこの煮物、車麩の味噌汁 という、当時では贅沢な献立です。暑い調理室の中で、さらに「煮物」中心のメニューを栄養士さん、調理員さんから作っていただきました。
【加茂軍議とは?】
この日、幕末(1868年5月22日 但し旧暦。今の暦だと7月10日)、官軍によって長岡城を奪われた長岡藩士 河井継之助、6年生の子どもたちが修学旅行にいく会津の藩士、米沢藩(今の山形県)、桑名藩(会津藩の殿様と兄弟)、村上藩、新発田藩、村松藩などの藩士が、加茂町に集まり会議をしました。
当時の加茂は、越後では中核となる商人のまちでした。長岡藩の河井継之助が金銀の両替で莫大な利益を得て、あのガトリング銃を購入できたように、加茂の商人も潤沢な利益をこれらの藩の軍事作戦に援助していました。
加茂軍議の中身とは、官軍(薩摩藩、長州藩、土佐藩)と抗戦(つまり戦う)か恭順(つまり従う)かでした。当初の会議の流れは「恭順」でした。加茂の町も、他の藩と同様に「恭順」「抗戦」で分かれていました。しかし、長岡城を官軍に奪われた河井継之助が村松藩の裏切り(実際はない)を疑い詰め寄ると、会議の流れは一気に「抗戦」に変わり、その後の長岡城奪還に繫がります。
歴史上、「加茂軍議」と呼ばれる会議が、その後の会津の歴史も変えていきます。つまり、長岡城を取り戻すために、会津からも多くの藩士が加茂、そして長岡へと進軍しました。本体の会津若松城を守るべき藩士も多く越後の地に来ていました。そして、ついには、若い「白虎隊」までが戦いに……。
歴史に「もし」は禁物ですが、もし、「恭順」になっていたら、長岡の町は燃えず、あの「米百俵」は届けられなかったかも? 会津藩の白虎隊の悲劇も起きなかったかも? 全ては妄想ですが。
6年生は、事前に会津と加茂についての関わりについて総合学習で調べます。
給食と一緒に写っている地図は、「越後国細見図」(天保13年 1842年)で、幕末の越後の様子が描かれたいます。よーく見ると、お箸の先が加茂です。須田地区の地名も見られます。