人権教育、同和教育に関わる道徳授業が5年生教室で行われました。資料「もう一つの水俣病『ある新潟水俣病被害者の訴え』」を使い、昨日と今日の合わせて2時間を使って、新潟県内の水俣病に関わる差別について学び合いました。
資料では、新潟水俣病患者へのこころない言葉や扱いが書かれていました。当時のことを思い出した内容でした。子供たちが「かわいそう」という言葉を口にしていました。
患者のつらさは、身体の不自由さ、心ない言動、そして、それが知り合いも含めた人たちから浴びせられたこと、という三重苦です。
授業のまとめで、「人とちょっとだけ違っても、相手のことを考えて…」という文章を書いている子供を見付けました。そこで…
(私)いっぱい違ったらどうする? 水俣病患者のように身体の自由がきかないくらい。今のあなたは、水俣病の人たちに、あんな(差別的な)言葉はかけないよね。昔の人とあなたの違いは何だろう?
(子)(私たちは水俣病の原因を)知っている。でも、昔の人は分からない。
(私)じゃぁ、(差別をしないためには)どうすればいいのかな?
(子)うわさだけで決めない。(自分と違う身体や考え方について)理由を聞いて確かめる。
(子)みんなおなじにあつかう
(私)(水俣病の人も歩けなくても)同じように歩かせるということ?
(子)できなことは助けてあげる
(私)ということは、出来ないところは助けて、私たちと同じようにできるようにしてあげること?(公平)
何でもかんでも同じにすることとは違うんだね。(平等)
※上の(子)は、机間巡視をした内の4人の子供たちの考えが混ざっています。ただ、子供たちと対話をして、平等から差別が起きるということもあることに、改めて気づかされました。数十年前の水俣病患者に対する差別意識を無意識にもってしまう恐ろしさを教えてもらいました。