地区水泳も前半が終わります。でも、暑さは続いています(プール点テント内34度)。元気な蝉の鳴き声がします。後半のプール待ってます。
7月最後の水泳! 『熱玉』の中に入っているような天気の中を続々と、須田っ子たちが登校してきます。
暑くなると、どうしてプールが美しく見えるんでしょうか。エメラルドまでいきませんが、マリンブルーに見えてきました。
本日午後7時から地区別懇談会がありました。多数の保護者の方から来校していただき、誠にありがとうございました。
ところで、今日の会の目的は、月並みな言い方ですが、以下のように捉えています。
◎子供が「健康・安心・安全に過ごすこと」ができるようすること
★そのために、心に迷いが生まれた時の子供自身の「ふんばる力」がなんと言っても大事です。
それは、「あなたのことを大事に思って、しっかり見ているよ」という大人の思いをどれだけ意識できるか、だと思います。夏休みに入るまでに、子供達にたくさん、大人の思いを伝えるためのお願いもいたしました。
学習参観日など来校される際に、メッセージカードにご協力お願いいたします。
子供によって心に引っかかる言葉は違います。「朝、お目目ぱっちりあいさつしてね」「お昼ごはんは食べよう」「一人ででかけないで」等。全部の言葉を覚えることはできませんが、大人が自分たち子供のために、言葉を送っている気持ちは伝わります。よろしくお願いします。
朝から始まった育友会資源回収作業、今年も、各地区から、ゾクゾク集まり、集積場はたくさんの「山」ができました。終わってみれば、足も腕も、ちょっぴりガクガクでした。
それぞれの地区で、朝から作業をしていただいた保護者の皆様、ありがとうございました。
午前中に不審者が学校内に侵入したという想定で、避難訓練をしました。学校では年間4回の避難訓練をします。火災2回(授業時、降雪時)、地震1回、不審者1回です。
今回の訓練では、「子供の安全が確認できるまで離れない」を基本に対応することを訓練しました。
避難後は、加茂警察署員の方から、防犯教室を開いていただき、
①一人にならないこと
②さそに乗らないこと
③危険を感じたら、可能な限り大きな声を出しながら逃げること など指導していただきました。
訓練で落ちついた行動ができても、実際の場面でもできるとは限りません。
しかし、
日頃落ちついた行動ができていなければ、実際の場面でもできません。
今後の学校生活でも気をつけてほしいと指導しました。
5月22日(月)給食は「加茂軍議」メニューでした!
白米、ます塩焼き、干しかぶとたけのこの煮物、車麩の味噌汁 という、当時では贅沢な献立です。暑い調理室の中で、さらに「煮物」中心のメニューを栄養士さん、調理員さんから作っていただきました。
【加茂軍議とは?】
この日、幕末(1868年5月22日 但し旧暦。今の暦だと7月10日)、官軍によって長岡城を奪われた長岡藩士 河井継之助、6年生の子どもたちが修学旅行にいく会津の藩士、米沢藩(今の山形県)、桑名藩(会津藩の殿様と兄弟)、村上藩、新発田藩、村松藩などの藩士が、加茂町に集まり会議をしました。
当時の加茂は、越後では中核となる商人のまちでした。長岡藩の河井継之助が金銀の両替で莫大な利益を得て、あのガトリング銃を購入できたように、加茂の商人も潤沢な利益をこれらの藩の軍事作戦に援助していました。
加茂軍議の中身とは、官軍(薩摩藩、長州藩、土佐藩)と抗戦(つまり戦う)か恭順(つまり従う)かでした。当初の会議の流れは「恭順」でした。加茂の町も、他の藩と同様に「恭順」「抗戦」で分かれていました。しかし、長岡城を官軍に奪われた河井継之助が村松藩の裏切り(実際はない)を疑い詰め寄ると、会議の流れは一気に「抗戦」に変わり、その後の長岡城奪還に繫がります。
歴史上、「加茂軍議」と呼ばれる会議が、その後の会津の歴史も変えていきます。つまり、長岡城を取り戻すために、会津からも多くの藩士が加茂、そして長岡へと進軍しました。本体の会津若松城を守るべき藩士も多く越後の地に来ていました。そして、ついには、若い「白虎隊」までが戦いに……。
歴史に「もし」は禁物ですが、もし、「恭順」になっていたら、長岡の町は燃えず、あの「米百俵」は届けられなかったかも? 会津藩の白虎隊の悲劇も起きなかったかも? 全ては妄想ですが。
6年生は、事前に会津と加茂についての関わりについて総合学習で調べます。
給食と一緒に写っている地図は、「越後国細見図」(天保13年 1842年)で、幕末の越後の様子が描かれたいます。よーく見ると、お箸の先が加茂です。須田地区の地名も見られます。