平成二十年十一月二十七日 加茂法話会
一、「踊り子号」の男 内館牧子(トランヴェール11月号 巻頭エッセイ)
前 略
脚本家の橋田壽賀子先生が『おしん』を書かれている最中、私は先生の熱海の仕事場に通っていた。膨大な資料を整理する程度の手伝いだが、卵以下の私にとって、一流脚本家のそばにいられるのは、何ものにも替え難い幸せだった。
それから約十年後、私はNHK朝の連続テレビ小説『ひらり』を書くことになった。先生は大喜びされ、一席設けてくださった。私は暮色の熱海が一望できる一室で、たった一つだけアドバイスを頂いた。
「出し惜しみしちゃダメよ」
これは強烈だった。さらにおっしゃった。
「半年間も続くドラマだから、ついついこの話は後に取っておこうとか、この展開はもう少ししてから使おうとか考えがちなの。でも、後のことは考えないで、どんどん投入するの。出し惜しみしない姿勢で向かえば、後で窮しても必ずまた開けるものよ」
実はその時、私はすでに半分以上の大まかなストーリーを作り終えていた。出し惜しみと水増しのストーリーだった。熱海から帰った夜、私はそれを全部捨てた。向き合う姿勢が間違っていたと思った。
二、小生の失敗
あれもこれもと入れすぎてしまって、法話の核心がわからなくなってしまった。
宮崎禅師とトキ放鳥の話。
三、十月二十日に、小須戸・新保・正福寺・28世宏庵良知大和尚遷化。明治四十一年2月28日生。
□弔句
切に生き 切に逝きしや 秋翁 斗志(「忍冬(ニントウ)」主催者)
□ご本人の遺偈 八十六歳の作
良遊不倦 百有二年 良遊・・俳号
観月看花 放下身心
□遺句
句に遊び 句より学びて 老いの春 (八十六歳の時、一緒に作った)
□亡くなる一ヶ月くらい前まで、俳句を作っていた。
「さんざんに 遊びつかれて 萩の秋」
四、切とは
曹洞宗を中国で開かれた洞山良介禅師の話
ある時若い僧が「きょうは、ほんとうの生きた仏様をみせてほしい」と質問。
洞山良介禅師は「われ、常にここにおいて“切”」とお答え。
切とは切っても切れないわれ、他人の仏様でない。生きた仏様。私自身が仏様。
ギリギリいっぱい、今ここに精一杯のまこと、精一杯のつとめということ。
自分は、今ここで精いっぱいのつとめをするということ
東龍寺住職 渡辺宣昭 合掌