平成十七年十月二十八日 加茂法話会
一、霊魂を実態のあるものとして考えているかどうか、実行力のあるものと語るようであれば、なんとなく怪しいぞ。
先月の乙川師の法話で
二、古代インドでは梵我一如という考え方があった。
宇宙全体を梵(ブラーフマン)として、私たちの体の中に我(アートマン)という清らかなものがある。霊魂とも言う。それが肉体という穢れたものに覆われている。そのために様々な苦しみが生まれる。だから、このけがれた肉体がとれれば、梵我一如になれる。それで、肉体を虐めた。苦行を行なった。梵我一如を理想とした。体を痛めつければ痛めつけるほど。ブラーフマンと一体になることが出来ると考えた。
しかし、道元禅師は、このこころはアートマンのような物ではない。わが身の中にあるのではない。わが身は心(ブラーフマン)の中にあるのではない。
道元禅師も、梵我一如思想を否定した。「凝然にあらず。」凝然とは、こういう凝り固まった物の事を指す。
仏教では霊魂が実態としてあることを否定している。人間の中に魂のような塊があって肉体が滅びると亦別の肉体に宿っていくという考え方を否定した。
角田泰隆師第五回眼蔵会「発菩提心」
三、作家の深田祐介氏は、仏教信徒から、キリスト教信者に改宗。
「そもそもあなたは神様がいらっしゃるとおもっているのか。」
「おもいます。」
「なら神様はどこにいらっしゃるとおもうんだ」
「私の胸の中におられるとおもっています。」
そして、洗礼を受けるときに、神父は
「日本人は形のとらわれ過ぎる。心の状態は誰にもわからない。神はわが心の中におられるのだ。」
四、駒澤大学佐々木宏幹先生の『死者と同事』で、「近代の学問仏教が、死者安心を不安定なものとしてしまった」と言われる。死んでどこへ?が答えられない坊さん。学識のある坊さんほど答えられない。葬儀の危機。 (蛇足88号より)
五、「この法(自受用三昧)は人人の分上にゆたかにそなわれりといえども、いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし」 正法眼蔵?道話
六、永平寺貫首 宮崎奕保禅師が、耕泰寺様の開山忌法要の御垂示で
「私たちは何の為に生まれてきたのか。
報恩供養の為に生まれてきた。しかしほとんど人が忘れている。
「釈迦牟尼仏、無上正覺を成じ、初めて菩薩の波羅提木叉(ハラダイモクシャ)を結し、父母、師僧、三宝に孝順せしむ。孝順は至道の法なり、孝を名付けて戒となす、亦制止と名付く」
東龍寺住職 渡辺宣昭 合掌