悦びをもって、日々道に親しむ(修 証 一 等)
平成十四年正月二十日 加茂法話会


一、 トンネルのむこうにみえる僕の春 かすかなれども いつか我が手に
高校一年 中迫克公(かつまさ)
二、 「玉は琢磨によりて器となる。人は練磨によりて仁(ひと)となる。何れの玉か初めより光有る。誰人(たれびと)か初心より利なる。必ずみがくべし、すべからく練るべし。自ら卑下して学道をゆるくすることなかれ。」
(玉はみがかれてはじめて器となり、人は錬磨してはじめて真の人となる、はじめから光のある玉もなければ、はじめからすぐれたはたらきのある人もあるわけではない。必ず切磋せよ。自ら卑下して学道を手ぬるくしてはならない。)
道元禅師が宇治の興聖寺で、懐弉禅師を初めての首座に任じて
三、 挫折から希望へ  千住真理子(「ほんまもん」のバイオリン演奏者)
四、 「それ修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の弁道すなはち本証の全体なり。かるがゆゑに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれとをしふ。直指の本証なるがゆゑなるべし。」       弁道話
(修行と証りが一つでないと思うのは、仏教以外の人が言うことである。仏の教えでは修行と証りは一つである。いま言う坐禅も証りのうえでの修行であるから、初心者の弁道(修行)はそのまま本来の証りのあり方の全体を現しているのである。そうであるから、修行の心得を授ける場合でも、修行のほかに、証りを期待してはいけないと教える。修行が直ちに本来の証りのあり方を表しているからである。)
五、 「幸福への旅」

シッタカブッダは幸福をさがしに何年もあるいていたが

歩いても歩いても見つからなかった

シッタカブッダは休んで考えた

シッタカブッダはさがすのをやめて歩くことを楽しみはじめた

幸福は歩くことそのものにあった

『ブッダとシッタカブッダ』小泉吉宏著
『幸福→証り  歩く→修行』 にそれぞれ当てはめてみる
東龍寺住職 渡辺宣昭 合掌