今回の話は、「21世紀の仏教を考える会」より、「仏教寺院(住職)が21世紀に取り組むべき姿勢」というテーマで原稿依頼を戴き、投稿したものです。
皆さんから、忌憚のないご意見をいただければ有難いです。
東龍寺住職 渡辺宣昭 合掌
レジュメ
一、 自分の目覚め
二、 宗教心
三、 僧俗一如の活動
四、 仏教の尊さ すべてが仏様 環境問題へ、戦争放棄へ、
僧俗一如のサンガをめざして
東龍寺住職 渡辺宣昭
私は、地方の一寺院の住職として、これからのお寺は、僧俗一如の修行の場所であるべきと考えます。
最初に、私自身のことをお話します。私は、寺に生れ、育ちました。学業は理数系方面へ進みましたが、最終的には、自分に最も相応しい職業は寺の住職となる道だと判断し、修士課程を修了するや、本山へ修行にあがりました。頭を剃って、その道に入ること、大変な勇気が必要でした。三年の修行の後、寺へ戻りますと何と最初の葬儀が師匠である実父でした。過労による急逝でした。
私の真の出家はここにあったように思います。その時に師匠が生前中如何に自分に愛情を注いで育ててくれたかが、ひしひしと感じる事が出来たのです。この思いを少しでも多くの方々に伝えたい、亡き人(仏)が、いつも私たちを見守ってくれている、共に喜び、共に悲しんでいてくれることを信じて他への思いやりと正しい智慧を実践する勇気を与えてくれるのが仏様であるという事を少しでも多くの方々へ伝えたい、決して職業としてではなく、伝道者として自覚したのです。そして、その教えを実践する人こそ仏様自身に他ならないのです。
その後、私は中学生の学習会と坐禅会を結びつけて、若い人たちが積極的に寺へ足を運んでくれるように、そして、そこから、自らが持っている仏心を自覚してどんな困難にも立ち向かっていく力を養ってほしいと願ってきました。その後、少しずつ坐禅に参加する世代が広がってきました。
今私の最も願うところは、お寺が、老若男女を問わずに集まる場となり、そして、僧侶と在家の皆さんが共に同じ目的で教えを実践していくサンガ(修行者の集まり)となることです。在家の皆さんは、宗教上の知識が深くなってきておりますが、実践が伴っていないと思います。また、僧侶は、寺院に入ると檀務におわれて、自分自身の修行あるいは、向上心が薄れがちです。だからこそ、僧俗一体の共に修行をする場が必要なのではないでしょうか。
拙寺では今年、僧俗一体の第一回の眼蔵会(坐禅を実践しながら、道元禅師がお示しになられた『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の集中講義を受ける、行学一如(学問と修行を共に行う)の法会)を開催しました。一見、このような行持と檀務が別々のような観がありますが、いずれもその目的は、一人一人が等しく持っている仏心を自覚し、本当の心の平安を得る事であろうと思います。
また、ホームページ(http://www.ginzado.ne.jp/~ryusei/)を開き、なかなか寺へ足を運べない方に少しでも活動を知っていただいたり、仏教の話を見ていただけたらと願っています。そして、もし時間が許せば足を運んでいただければと念じております。
私は、自分の信じる曹洞宗の教えは、実践の中にあると思います。思いやりと正しい智慧の実践、そこに自身の仏心に目覚めていっていただきたいと願っています。
今、世界中がテロ事件で騒然としておりますが、仏教では、決して報復によって平和が得られないと教えています。すべてのもの仏と自覚するからこそ、すべての命を大切にするという教えがその根本にあります。そして、現在進んでいる環境破壊に対しても仏教の教えの実践こそが、今最も必要なのではないでしょうか。