人間に生まれ、仏法に逢い得たる喜び(年頭にあたり)
平成二十五年一月二十二日 於加茂法話会
一、普 勧 坐 禅 儀とは、(嘉禄三年一二二七・立教開宗の宣言)
普 勧(ふかん) 坐 禅・・・みんなで坐禅しましょう。あなたも坐禅してみませんか、というのが私たちの御開山道元禅師のおすすめ、ふかい宗教体験からのお言葉です。これは、お釈迦様の教えをほりさげ、これこそ仏法の根幹・真髄である。考えてみれば、これ以外に本当の仏教はない、禅師がしみじみ感じなんと素晴しい事かと、心からの叫びです。
たとえば、念仏が最高というお祖師様、『法華経』こそ釈尊の出世の本懐をかたる飛びきりの教えであると受け止めたお方もあるが、道元禅師はどこまでも仏教の源泉は坐禅であり、全仏教は釈尊の禅定からもので、仏教はこの一行につきるとの、固い信念に立っておられる。道元禅師様は、坐禅を重んじられたのは、それも仏教を学ぶ一つの立場だ、というのではなく、これこそ仏教の真髄・根幹とされるのです。その理由は釈尊の修行の経過を考えればすぐ分かる事です。 釈尊は菩提樹の下で六年端坐し、深く禅定に徹して悟証に達した。それを成道といいますが、この時点が仏教の源泉ですから、そこに、着眼すれば、とうぜん道元禅師のいわれるように坐禅第一になります。いいかえれば、全仏教は坐禅に始まり、坐禅に終わることになります。この点を見落としてはなりません。ここに着眼すれば道元禅師の言われることに理があり、筋が通っていることがわかります。
二、人間に生まれ、仏法に逢い得たる喜び
「既に人身の機要を得たり、虚しく光陰を度ること莫れ。仏道の要機を保任す、誰か浪りに石火を楽しまん。」
「既に人身の機要を得たり」…人間に生まれたことを喜び、しみじみ感謝することです。
人身得ること難し、仏法逢うことまれなり。尊き人生であるから、
「むなしく光陰を度ること莫れ」道元禅師様は、仏の正法、真実の自己の究める坐禅法門があるのにむなしくそれを見送ることを惜しむのです。無常迅速は、繰り返しのない人生の消耗を惜しむのです。「残り少ない人生、くよくよすることはない」いささか違います。
ここで大切なのは、「仏道の要機を保任す」…先きに「人身の機要を得たり」といい、ここでは、「仏道の要機を保任す」とあって対句になっていなます。機要と要機とは文字を転換しただけで、同じ意味たいせつなところ。カナメです。
三、道元禅師は、「佛佛の要機、祖祖の機要」使い方をされています。お釈迦様を始として諸佛の示された教え、それを受け継ぎ、継承いる教え、それらは、人生の根本を語る重要なカナメという意味、機要です。
人生とは、何か。いかにあるべきか、これが仏教の根本であります。人間に生まれ、仏道によって方向づけをしてもらう。このしあわせをむなしく見送ってなるものか、という道元禅師の励ましです。
四、「誰か浪りに石火を楽しまん」…電光石火というか、人生の永遠の中の一瞬でしかない、うかうかしてはおれぬというものの、実際には時の流れに、おし流されている自分に気が付きます。
正寿寺住職 呉 定明合掌