平成十九年九月十八日 於加茂法話会
びちょうどよい程度、適度。
ぴ@〈「いい加減なところで」「いい加減に」の形で〉ほどほどのところで。
A〔物事のしかたが〕徹底的でないようす。おおざっぱなようす。また、無責任であてにならないようす。おざなり。「好い加減な仕事」
ふ〔物事の程度が〕許される限度をこえたようす、だいぶ。
〔好ましくない場合に使う〕「好い加減いやになる」
@おろか・なり【疎かなり・愚かなり】劣っている、下手だ。
Aおろそか・なり【疎かなり】おろそかだ、粗末だ。
Bなのめ・なり【斜めなり】いいかげんだ、おざなりだ。
Cなほざり・なり【等閑なり】本気でない、いいかげんだ、注意を払わない、おろそかだ。
Dはかな・し【果無し・果敢無し】粗末だ、あっけない、たわいない、取るに足りない。
結果がどうなるかわからなかったりして、不安定で、頼りにならないようすを表す。
「いいかげん」というと無責任、中途半端、適当あまりよい感じではない。しかし、白でもない、黒でもない、善でもない、悪でもない、好きではないが、嫌いでもない、ちょうど良い加減という意味だ。日常生活では白黒、善悪、左右をはっきりさせる事を求められている。ある程度距離を置けば『いいかげん』になる。わび、さびの心、静かな境地。
「彼岸」には、先祖の供養を行う。
「彼岸」とは煩悩を超越した悟りの境地、春分と秋分の日を中日として、その前後三日ずつ、あわせて七日間である。
「到彼岸」中道を歩くとは、煩悩を川の流れにたとえ、こちら岸(此岸)から、悟りの世界、彼岸(向こう岸)到ることである。本当に「いいかげん」保つことは難しい。
「般若心経」の「不生不滅 不垢不淨 不摯s減」の心で生きることである。
「一切衆生 悉有佛性」皆仏の心を持つている。泥の中の蓮はどんなに汚れていても、蓮は汚れがつかない。清浄な姿を現す譬えだが、蓮の葉ばかりで、ツボミも花も咲いていない、芽が出ない人が多いように思う。「いいかげんな」気持ち思いでは駄目である。
過現当来の諸仏諸祖、ともに父母・師僧・三宝に孝順し、病人等を供養するを化原(教化)とせり。「正法眼蔵四禅比丘」これが基本である。菩提心発。
正壽寺住職 呉 定明合掌