眼蔵会について
平成十七年度四月十八日於 加茂法話会
一、正法眼蔵とは何か。ざわついている心を落ち着けて、本当の自分を知る、その落ち着いた心から、物事を正しく判断する。またその正しい判断から人間の尊いことをしみじみ知る。そうなっていくのが禅の本旨である。 本当の人間を作ることを目的とする宗教、人間作りの宗教、だから、「正しい生き方をしっかり見極め、腹の底に修めた生き方をする」こと。
二、眼蔵会とは、正師(お釈迦様から代代受け継いできた命の使い方を正しく実践している人)について、仏法の生き方を参究し、実践することを目的としている。人間づくりの勉強会である。真理を身につける人になるには、どうすれよいか。
禅学・忽滑谷快天、宗学・遠藤即応、道元禅・榑林皓堂
眼蔵家 西有穆山、丘宗潭、秋野孝道、岸沢惟安、橋本恵光、鎌谷仙竜、
宮崎奕保、沢木興道、酒井得元等。
三、正法眼蔵発無上心
寛元二年(一二四四年三月三十一日) 甲辰二月十四日在越州吉田県吉峰精舎示衆
四、正法眼蔵発菩提心
爾時寛元二年甲辰二月十四日、在越州吉田県吉峯精舎示衆。
建長七年乙卯四月九日、以御草案書写了。
懐弉
『建撕記』寛元二年二月十九日(四月五日清明第二日)大仏寺法堂の地を平げ、四月二十一日(六月五日)礎石柱立、上棟は次の日なり。
五、発無上心は当時永平寺の前身であります大仏寺の建築作業が行われていた、建築業者や職人、手伝いの人々に対して、仏像を作る、建物を作ることが立派な菩提心であることを説かれた。
六、発菩提心は、出家の方々に対して、真実を知りたい気持ちを起こすことが仏道の最初であることを強調している。
正壽寺住職 呉 定明合掌
正法眼蔵発菩提心玄談
この撰述は「寛元二年(一二四四年二月十四日、吉峰寺で示衆」とある巻である。
発菩提心の心の分類、発心と刹那消滅、仏と菩薩、魔説の説明等骨子となって説かれている。先ず「心」に慮知心、草木心、積聚精要心の三種があり、菩提心を発すは慮知心を用うのである。慮知心は一般の知覚判断、分割決定する心をいうので特殊な心を意昧するものでない。
この慮知の心で一切衆生を彼岸へ渡し、証りの智を得させようと発願し努カ精進することを発菩提心というのである。発心のことである。ただ高祖はこの発心が修証の実践で、初発心ののち修行・菩提・涅槃という経緯的なものとは異なると示される。
この発心は「存在せるもの」として在るのでなく、仏心と感応道交、以心伝心して「発」するものである。ゆえに仏が授けるものでなく、衆生が転心して、自未得度先度他の願行を起して仏心になりきって修証、実践することをいうのである。ゆえに、初発心と佛果菩提が不ニ一如であるこを迦葉尊者の偈「発心畢竟二無別如是二心先心難」を示し、自未得度先度他の心を発すことが発心であり、その心が証悟の全体であるというのである。さらに「この心をおこすよりのち、さらにそこばくの諸仏にあふたてまつり、供養したてまつるに、見仏聞法し、さらに菩提心をおこす、雪上加霜なり」と註して初発心の行持道環、実践が見仏であり供養諸仏であるとする。
『法華経』寿量品の結句に「毎自作是念以何令衆生得入無上道速成就仏心」とあるが、これが仏菩薩のはたらきのすべてなのである。一切衆生を利益して無上道を得せしめ、彼岸にわたして仏身心とするとは、衆生自身に自らはほとけにならず先ず他をわたす心なおこさせること、利他行を自覚させることである。ゆえに衆生自らが仏になる功徳が熟しても、利他を先として精進するのが仏道の修証である。この発菩提心の展転するとき全世界は菩提心が蓋い尽すのである。
次に仏道は因縁所生の法のゆえに「心」もあらゆるものごとも因縁により生ずるのであるから、心や我有の対象となる金銀財宝、名利権力等は縁により生滅するという本質をしり一瞬でも菩提心を起すならば、あらゆるものごとは発菩提心の助けとなるのである。刹那生滅が前の悪を追い出し、凡夫心な消減させて善を現成せしめるのである。一刹那に生滅し転変する世界の真相のゆえに菩提心も発し、得道もし一たび発心得道する者はしりぞいて凡夫心が顔出しすることはない。
ただこの刹那の量、はたらきをしっているのは如来ひとりがご存知であり、刹那を詳細に説くならば一弾指の間に六十五の刹那を生じその各々の刹那に五蘊という物質の構成要素が生滅すると説き、極微を説くのであるが劫(無限の時間)といい、刹那という長短極まりのないときの間に無量無数の生死流転をしていることを自覚することが仏教を信仰し仏道を行ずることとなるのである。衆生の一個の身心も業(行動)によってさまざまな流転生死を繰り返して一瞬たりとも止住する身心でないことは明らかとなったのであるから、この身心を挙して「自未得度先度他」の心を発して衆生の利益を念ずるならば与えられた寿命も無量の寿命となるであろう。過去七仏以来諸仏祖菩薩はこのように衆生の成仏得道に努められたから無量寿の生命を保たれていまなお従横に活躍されるのである。
『禅苑清規』の「発悟菩提心なりや否や」は、菩提心を発しているかどうかという問いかけをひいて、「仏祖の学道かならず菩提心を発悟するをさきとせり」としながらも、「発悟すといふは暁了なり」と、仏道の究尽であると説かれる。このことは、先に述べた迦葉尊者の偈はニ無別のことをいうのである。しかも「これ大覚にあらず」と究尽したところ止住しない仏行に徹底する人、利他の菩提心を発悟した人は菩薩であるというのである。
菩提心を一切衆生のある限り護持しつづけて自らの成仏をしない菩薩に向って魔王、悪魔が仏や父母、師匠親族の姿に変じて「仏道は長い修証が必要で難行苦行の連続である、ゆえに自ら証ってしまって後に迷える衆生を救済すれば良いではないか」と話しかけるが、これが魔説というものである。
魔とはいかなるものかといえば、四種類あって煩悩魔・五衆魔・死魔・天子魔である。煩悩魔とは衆生の身心を障害する無数の煩悩のことである。五衆魔はさまざまな苦悩を生ずる五つの要素、即ち色受想行識をいう。死魔は生命を断ち身心を離反することをいい、天子魔は欲界の主として無所得の仏道を憎むことをいう。魔というものは仏道成就の障害をなすものごとをいうのであるとの提唱である。