般若心経(十回目)
平成十五年十月二十二日 於加茂法話会
一、無無明亦 無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽。
暗き闇夜の世界なく、暗夜(やみよ)の世界なし。老いもなく、死なく、老いと死のなくなる世界もあらざりき。
空の實感の中に無明もなければ、無明の尽きることもない乃至、老死もなければ、老死の尽きることもない。逆にいえば、そのものをそのものとして認め、認識する。そのものをそのものとして認識することが一番難しい。
二、無苦集滅道。無智亦無得。以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。
苦(なやみ)・集(まよい)もそこになく、滅(さとり)・道(おしえ)もあらざりき。
智(ち)もなく、身に得るものもなし。およそ所得(うるもの)なき故に。
菩提薩埵(さとりもとむるひと)たるは、般若波羅蜜多(ちえはらみた)に依り立ちて、心に罣礙(こだわる)ところなし。
三、目に入っているのに見ていないものがある。耳に入っているのに聞いていないものがある
たとえば、ここで話を聞いているとしよう。それを録音して後で聞いてみるといろいろな音が入っている。だけど、話を聞いたとき、聞こえていたのは相手の声だけだった。耳は心と一緒に活動しているからね。
感覚器官は心を、意識を向けたものだけ感覚するのです。
目は必ず心と一緒に活動している。耳も鼻も体も心と一体に活動するのである。
それなのに それなのに 人は物事をあるがままに受け止めているものだと思い込んでいる。
ものを見る時、聞く時、嗅ぐ時、味わう時、どんな時も心を通している。心なしでは感覚しない。それなのに、人は物事をあるがままに受け止めているものだと思い込んでいる。
四、すべて心で見ている。自分の見ている物の全ての物は、自分の心の中にあるんだ。
机も黒板も本も猫も犬も人もみんな、みんな。そして心もまた、生まれては滅している、
川の流れみたいなもんだよね。
五、人生の真実は何でしょうか。人間は人生の真実の中に生きている。鳥が空とは何ですかと質問するようなもの。水はつかむではなく、水はすくうものです。心はつかむものでなく、心は受け取るものです。
正壽寺住職 呉 定明合掌