般若心経について(二回目)    平成十四年七月二十四日 於 加茂法話会

一、絵般若(文字を使わず絵を用いた「心経」
   一七〇〇年頃、元禄時代。
   金色堂で有名な中尊寺の平泉で、寺社取締の補佐役をつとめていた善八
   (源右衛門)という人の発案。
   善八さんは、元禄年間に事情があり、盛岡市と十和田市の中間に浅沢村に身
   を隠した。この浅沢から貝梨峠を越した所に田山という盆地の人々を対象と
   して絵般若を作ったのが、始まりとされる。

  今も昔も「心の灯」として「一切の苦厄を救う」この心経を皆様と倶に一層深
  く信仰いたいと思います。

二、偉大なる智慧の真理を自覚する肝心教え・幸せに至る仏の智慧のおしえ。
  生かされている事実を智慧によって、安らぎの世界、幸せに至る心の保ち方。
  私たちが、迷い苦しみの人生から、喜びと安らぎの人生に転換するには、どう
  するか。人間覚醒の教え。人生いかに生きるか。

  摩訶とは、偉大な・大心(大小に捕われない心)摩訶不思議。
   摩訶、偉大なこと。宇宙からみれば、なに一つ不要なものはない。
   世の中には、無用なものはない。ほとんど無用のように見えても、他のもの
   に力を与えると共に、他の支えともなる。禅では、全てのものが増えたり減
   ったりしながら、互いに影響し仕合変化し続けている絶対的存在を大心・空。
  般若とは、智慧。(はなはだ優れた認識・完全なる智慧)
   人間の本性というものは、鏡のように清浄なものである。
   鏡の中には本来何もない。何もないから、物が来れば映るし、去れば消える。
   後に何も残さない。物が映ったからとて、鏡の中に生じたものはない。物が
   消えたからとて、鏡の中に滅したものはない。これを不生不滅という。
    汚いものを映したからとて、鏡はそれで汚れはしない。奇麗なものを映し
   たから鏡が奇麗になるわけではない。不垢不浄。
    物が映ったからとて鏡の重さが増えるわけではない。物が去ったからとて
   鏡の重さは減らない。不増不減。

  自我の目で見るのではなく、カメラのレンズ(仏の目)でみる。
   レンズの前では、大小もなく、貧富もなく、一切が平等であり、すべて同じ
   映像であるにすぎない。
   ありとあらゆるものが、偉大なものであり、絶対尊厳なものである。

  曇った(貪・瞋・痴)心で受け取るか。晴れた(布施・慈悲・智慧)心で受け
  とるか。自らが自覚して求める事が大切。

  波羅蜜多とは、行く、到着する。
   欲望の世界から安らぎの世界にゆくには、どうするか。
   1、財・何者をも畏れない・法を布施すること。
   2、戒め、規則を保つ・持戒行なう。
   3、あらゆる心ふさぐ事柄に忍耐をすること。
   4、懸命に心を尽してただ行なうこと。
   5、心を一つにしてひたすら行なう。
   6、智慧の心の実践。

 心経とは、肝腎要、縦糸は仏様の教え、横糸は自己の生き方。
  どんな反物をいかに織って行くのか。
                         正壽寺住職 呉 定明合掌