『学道用心集』永平寺を開かれた道元禅師は曹洞宗の宗祖様です。一二三四年頃に正しい禅を日本に伝えた道元様が、佛道(命の使い方)学修する心づかいを表わした書物です。
第八番目に「禅僧の行履(実際に行なう)」とは、坐禅の修行をして佛道を求めている人々はどのような行ないをすればよいのか。
道元様は、自分の日常生活の最も適した状況の中で、環境に逆らわずに、落ち着いた生活をする。一ヵ所に留まらず、自由自在に動ける状態で有り、又執着のない状態である。
修行僧が、趙州和尚(七七八〜八九七・生まれは山東省。六十歳で出家。広東省観音寺四〇年住職した)に質問した。
僧が、「犬にも佛性があるのか?」質問したら、趙州は「無い」と云われた。この僧は有るとか無いとか云う問題でなく、つまらないことを聞くな、理屈の中には佛法はない。ということが理解できていない。
臨済宗円覚寺お坊さん、Mさんが同級生に放課後聞いてみました。臨済宗では、禪問答の公案どのようにするのですか。
「犬にも佛性があるのか?」趙州は「無い」と云われました。どうですか。
M「根拠はどこにある」・「どう成仏するか」・「灰になったらどうする」
M「趙州は或るとき有と云うが、どうじゃ。」
M「無門の20字を一度に読め」・「無の體はどうじゃ」「無字の用はどうじゃ」
M「無字と業識性(妄想)との隔たり」「無字の著語」「無字の根源」
M「無と有分けてみよ」「無と有の隔たりは」「無の全体の大きさは」
これ説明していると終わりませんからやめますが、これが禪問答です。
臨済宗は坐禅の時に公案の宿題を工夫するのですが、曹洞宗は公案をしないでヒタスラ坐るのです。身も心も正しく調える。頭に浮かんでもそれを追わないのが、坐禅の特色です。
こんな話を師匠に話したら、今食べているメロンの味、禅の言葉で表現して答えなさい「 」とこたえたら、その心を大切なんだよ。素直な気持ちを忘れないように大切に修行しなさい。
道元禅師様は、私たちに、妄想に振り回されることなく正しく生き抜く事の大切さを説かれています。頭の中で考えて、無の字に取り捕まって動きが取れない。だから、考えるより、手を撫ぜてみてください。自分の体、心、行ないはどうか。生き方、頭で考えるより、実際に行動してみる事を強調されます。