懺法の因縁と達磨

平成十三年九月二十六日 於加茂法話会

懺法の因縁

梁の武帝のお妃に〓氏という人がおられたが、武帝がまだ雍州の刺史という役人をしている時に、その妃が三十二歳で亡くなられた。

その人は非常に嫉妬深かったので、亡くなってから、巨蟒となって、有る夜、武帝に夢を見させて「佛法の功徳によって、私の苦しみ悩む事を救ってくれ」と願う。武帝は、沢山の大蔵経を閲覧され、慈悲の懺法を作られ、僧侶を招いて佛様を礼拝し、懺悔せしめたところ、不思議にも思った通りに感応して、巨蟒の姿から天人の姿になり、空中に於て武帝にお礼を云うのを聞いて、懺法の功徳によりて、すでに、生天(死後に生まれ変わる)こと願い知って、これより後、武帝は生涯、独身で通された。武帝が皇帝になってから、追崇して皇后となした。

これが、懺法の始まりである。懺法は、懺悔し罪業の消滅を期し、先亡供養は除災招福の祈祷の為に盛んに行なわれるようになった。

梁の武帝と達磨の問答が有りますが、禅宗の各派で重要視されています。南天竺より三年の歳月をついやして、中国の広州に着いたのは、梁の武帝の世で、大通元年(527年)のことである。

武帝は王宮の門まで達磨を迎え、正殿に座を設け、問答を始めた。

私は、かつて寺を多く建立し、又経典を写し、多くの僧尼を供養し、又、佛教の保護をした。この功徳はどれほどか。

達磨が答えて云うには、「無功徳」功徳は計り知れないと言うのを功徳が無いと聞いてしまっておどろいた。

武帝は「なんで功徳が無いのか」

達磨は「人生にとっては、小さなことである。光に照らされて、物に影が宿るようなものである。真実佛教の生き方は、寺を建立することや経典を写したり、僧尼を供養することによって功徳をもとめるものではない」

武帝は「どのようなことが、真の功徳か」

達磨は「仏の功徳、布施行というものは、結果を求めず、只行なう。仏の功徳を自分の物差しで図るものではない」

武帝は「どのようなものか。一番大事なことは」

達磨は「物事に執着しない生き方だ」

武帝は「貴方はどのような生き方をしていますか」

達磨は「どのようにも生きるから知らない」

その後、達磨は、揚子江を渡って魏の国に行かれ、嵩山の少林寺で面壁九年され、大同二年十月五日に亡くなっている。

達磨さんは、壁に向かって坐禅をされましたが、どういう坐禅をされたか。一度立ち止まると正しい物事が見えてくる。一に止まると正しいという字になる。正しい姿勢には、正しい心が宿る。

達磨の立ち止まりは、どんなことか。日常生活に於て考えてみると。

正壽寺 呉 定明 合掌