京都大石寺に参詣

(大石旧跡)曹洞宗岩屋寺 近江三十六不動尊 二十四番霊場

京都市山科区西野山桜馬場九六 (075)581―4052

 もとは比叡山三千坊の一にして、曹洞宗天寧寺末寺、不動明王は智証大師の作と伝えられ、大石良雄の念持佛であった。赤穂城の明渡し後、隠れ、討ち入りの作をめぐらし、事成就の後、邸宅田畑を岩屋寺に寄進。

 宝物・机、輪島塗のお膳、槍、秘密金庫、古文書、四十七の位牌、木像。遺髪塚。

  五十年に一度のご開帳であったが、赤穂浪士の討ち入り、十二月十四日から

一ヶ月お不動様のご開帳。春は桜が綺麗。大石弁天もご利益がある。

 

一、【赤穂義士】元禄(げんろく)十五年十二月十四日(一七〇三年一月三〇日)吉良義央(きらよしなか)の屋敷をおそい主君浅野長矩(ながのり)の敵(かたき)を討った大石良雄(よしたか)ら赤穂の旧藩士四七人の称、四十七士。赤穂浪士。義士。

 

二、【仮名手本忠臣蔵】浄瑠璃、時代物、十一段、竹田出雲(いずも)・三好松洛(みよししょうらく)・並木千柳 (宗輔(そうすけ))作。寛延元年(一七四八)大坂竹本座初演、赤穂四十七士の仇討ち事件を題材にした近松門左衛門の『碁盤太平記(ごばんたいへいき)』や、その他の先行作の長所を集めた義士劇の集大成、舞台を足利時代に移し、高師直(こうのもろなお)を塩冶判官(えんやはんがん)の臣(おみ)、大星由良之助(ゆらのすけ)が討つ。

 

三、明治天皇宣示…明治維新時、泉岳寺と岩屋寺に【優渥ゆうあく・ねんごろ】賜る。

 

汝、良雄(よしたか)等、固く主従の義を執(と)り 仇を復して法に死す。百世のもと 人をして感奮(かんぷん)興起しむ。朕深くこれを嘉賞(かしょう・はめたたえる)す。今、東京に幸(こう・ねがい)すよって權辨藤原獻(けん)を遣わして 汝らの墓を弔い、且つ金幣を賜ふ。宣。明治元年十一月五日

 

四、 あだ討ち禁止令…赤穂浪士のあだ討ちは、天下に義擧(ぎきょ・公共のため正義のためにおこすくわだてや行動)を決定されたが、公認すべきでない。明治維新の秩序が乱れる、

    復習をしてはならない。明治六年六月、(太政官第三十七号)

 

五、「萬山不重君恩重 一髪不軽我命軽」…大石内蔵助良雄の刀のサヤに

   アメリカ、マッカサーが一番恐れた日本人。東光平八郎が最も尊敬した人。

 

六、泉岳寺は墓所、岩屋寺は位牌所。

 

七、戒名…刃○○剣、刃は、自刃、(切腹)、剣は(討ち入り)意味するものであろう。

  大石戒名は、忠誠院刃空淨剣居士霊位である。行年四十五才。

八、寺坂吉右衛門信行…節巖了貞信士、行年七十五才、足軽。

 

正壽寺住職 呉 定明合掌