自然の分身 平成二十三年三月二十八日
五泉市永谷寺 吉原東玄
「自」然の「分」身が「自分」である。
「自然」を理解することが。とりもなおさず「自分」を解ることにつながるのである。仏教的解釈では「諸行無常」ということになる。
【 現成公案 】
仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
『正法眼蔵』の巻名の一。九十五巻本は三巻
仏法に証入していくための方法が説かれ、また証入した状況についての説示が繰り返されている。万法と自己の関係や、仏道の学び方、そして生死の問題などである。
【 渓声山色 】
中国の文人であった蘇東坡(1036〜1101)は、廬山に到ったとき渓の水の音を聞いて、それがそのまま仏陀の説法に他ならないことを悟った故事を転じて、禅宗に於ける悟道そのものを指す言葉。
『正法眼蔵』の巻名の一。九十五巻本は九巻
【 無情説法 】 無情である自然の草木国土障壁瓦礫等が、 仏の真理を説いていること。
元々無情説法は、中国禅宗六祖慧能の弟子である大証国師南陽慧忠禅師が説いたものである。それを受けて、曹洞宗の系統では、仏法については絶対の働きを如何にして感じとるかが問題であり、そこでは人という主体を立てて説法を聞くという常識程度の理解を超えなくてはならなかった。
『正法眼蔵』の巻名の一。九十五巻本は五十三巻
自然と人間性
万物はすべて自然の分身であり、その法則に従って生きています。人間は山川草木と同じく自然の一部であり、その間の区別は有りません。
自然は悠揚せまらぬリズムで私たちの生を育んでくれます。
自然の法に従って歩みを共にする者は自然の持つリズムによく気づき、自然のあり方に大きな関心を持つようになるでしょう。
自然はそのようにして自然の法に学んで生かしていく者には豊かな恵みを与えてきました。
私たちの先祖は従来自然の営みのなかに自分を置き、自然に従ったり時には逆らったりして喜びや悲しみを繰り返す生活を重ねてきました。
しかし、産業の発達につれてそれがいつしか失われてきました。
自然は人間の生活のためにどのようにでも利用することができるという考え方が支配的になったのです。
ところが、今や地球温暖化を始め自然のリズムをおびやかす種々の問題が発生しています。
自然は、産業のあり方が今のままでは遠からず破綻を来すのではないかと私たちは気づきはじめています。
それにつれて自然のリズムをおびやかすことなく自然との共存を模索する動きが世界的に強まって来ています。
私たち人間が自然の一部として生きていくなら、人間自ら自然に近づき、自然の法を見いだし、自然に学んで行動を選択していかなければなりません。
それが自然の分身である人間としての誠実な生き方であり、人の道であり、人間性そのものであると思います。
【大成 株式会社】 社訓より抜粋