我 逢 人
加茂法話会 平成二十三年八月二十六日
一、
八月二十四日午後五時から、才歩地蔵様で、年一回の大祭と灯篭流しを行った。
大人・子供を含めて、三十名近いお参りがあった。
二、
去る七月二十九日の豪雨で、川之下の渡辺芳孝氏が才歩川に落ちて不明になる。
八月一日朝、才歩地蔵様の僅か上流で、発見された。
三、
大本山總持寺移転から、百年を迎える今年
明治三十一年(一八九八)四月十三日 能登、總持寺炎上 七堂伽藍すべて焼失
明治三十八年(一九〇五)四月十六日 石川素童禅師、独住四世として晋住
明治三十九年七月 両本山の合意し、正式に東京付近へ移転を決める *石川県の北国新聞が移転の事を報じる
石川県民と門前町の人たちが移転阻止の猛烈な反対運動を始めた
八月、石川禅師が東京から能登へ帰山するのを阻止しようとした。人力車三台で夜中に帰ろ うとしたところが、待ち伏せに逢い一台がひっくり返される。禅師の乗った車ではなく、危うく難を逃れ、本山へ入る。
しかし、当時の仮紫雲臺に、若者が罵声を浴びせるやら、投石をするなどの大騒動となり周 囲に三十人の護衛を置くという始末だった。
反対派は、「能本山非移転同盟会」を結成して石川県知事や大臣、旧藩主前田家へ陳情書を 提出するなど、エスカレートしていった。
最終的には、知事の調停を受け、地元以外の大勢が移転に傾いている情勢を見てとり、明治 四十年一月に「啓沃書(けいよくしょ)」(十四条からなる要望書)を石川禅師宛に示し、受け入れた。
明治四十一年十一月 神奈川県鶴見に移転起工
明治四十四年(一九一一)十一月五日(日) 能登から鶴見への御移転遷祖式
平成二十三年四月〜十一月五日 御移転百年慶讃報恩法会 於・總持寺
現在の總持寺は、幼稚園から女子大学までを含む總持学園、鶴見総合病院など、広く社会に施与している。
四、
田上本山講では、六月八日、總持寺一泊参拝。
四月十六日に江川辰三禅師が就任。石川禅師と同じ日。
『我逢人』と絡子に御揮毫いただいた。
「まのあたりに先師を見る。これ人に逢うなり」 正法眼蔵 行持
道元禅師の中国で如浄禅師様との出逢いの言葉
江川禅師曰く「ただ単に人に出会うのではなく、出会った方々の仏性を拝ませていただき、わが師として、礼拝させていただきたいと念じている」
東龍寺住職 渡辺宣昭 合掌