道昭一代記 〜その二〜
加茂法話会 平成十六年二月二十三日
永平寺に上山する日が三月十五日(平成十四年)と決まりましたが、東龍寺を出発するのは十四日です。というのも実際に永平寺の山門に立つ前の日に、最終確認とほんとうに基本の基本のことを教えていただくために、永平寺のいちばん門前よりにある地蔵院というところに行くことになっているのです。いよいよ明日となりまして逃げることも隠れることもできなくなったわけですが、師匠と一緒に近くの旅館のお風呂に入りに行き、頭を剃っていただきました。それまではバリカンのいちばん短く刈れるもので刈っておりましたが、剃るのは初めてでした。初めて剃った頭は皮膚がふにゃふにゃで自分の頭ではないようでした。師匠のお母様にお褒めいただきましたが、引きつった笑顔を返すことしかできなかったのを覚えています。
この日の昼から母が実家から来ておりましたが、ほとんど話はしておりませんでした、顔もほとんど合わせませんでした。仲が悪かったわけではありません、母の顔を見ることができなかったのです。まして会話をしようにも口を開いたら何をいってしまうかわからなかったので、話さないようにしていたのです。私は母にも誰にも永平寺に修行に行くことが楽しみだと口にしていました、確かに楽しみというか「期待」といったものはありました。しかし生まれてから二十四年間母の元を離れたことがありませんでしたし、甘ったれでわがままだったこともあり母の元を離れて修行に行くということは、本音を言えば行きたくないというのが正直なところでした。
実際に永平寺に行く日が近くなってきて、プレッシャーのようなもので夜眠れなくなり毎晩酒を飲みました。といっても友人たちと居酒屋などにいって楽しく飲むというわけではありません。自分の部屋で毎晩一人で飲んでいました、一人でべろべろに酔っぱらうまで飲んでから寝るようになりました。
いよいよ明日出発と言う十三日の夜、東龍寺の坐禅堂で師匠と母と三人で寝ました、翌日は五時に起きることになっておりましたが、なかなか眠ることができませんでした。このまま朝が来なければいいのに、そんなことばかり考えておりました。しかし、朝が来てしまいました。田上の駅でわざわざお見送りに足を運んでくださった方もいらっしゃいました、涙を流してくださった方もおりました。母と越後湯沢の駅で別れることになっていましたので、二人で電車に乗りました。電車が動き出すとなんだか戦地に赴く兵隊さんのようだなと思いました。いわゆる雲水のかっこうをしているので、電車の中ではとても目立ちます。ちょうど登校・出勤の時間に重なったこともあり、だいぶ注目の的でした。
越後湯沢に着いて乗り換えの電車を待っているときもほとんど母と会話をしませんでした。電車が来まして乗るときに私は「いってまいります」と言いました、母に敬語を使うときというとお金をせびるときと悪いことをしてそれを報告するときくらいにしか、使ったことはないんですが自然と口から出たのが不思議な感じでした。電車が動き出して私は精一杯の笑顔を母に向けたつもりでしたが、後で聞いたら子供が泣きそうになるのをこらえているようにしか見えなかったと言われてしまいました。そのとき初めて母が涙を見せました、電車は動いていたので二・三秒でしたがその姿は私の脳裏に焼きついて離れませんでした。
十二時頃に福井の駅に着くことになっていたので電車の中でお弁当を食べましたが、三分の一くらいしか食べることができませんでした。福井の駅に着き、タクシーに乗り永平寺に向かいました。門前の宿で少しだけ休憩をすることになっていました。その宿の人についさっきまで今日地蔵院に行くという人が私のことを待っていたと聞きました。その人も一人では不安なので一緒に生きたいと話していたそうです。その宿を出て後は永平寺まで直線の坂だけという道で見上げてみると、自分の前には誰も歩いていません。近くの店の時計を見ると十二時四十五分でした。十三時までに到着となっておりましたのでぎりぎりでした。坂を登りながら空を見上げてみると、嫌みなほど青空でした。そして地蔵院の前に立つと中から大きな声が聞こえてきました、声というか叫びのようなものでした。
そこで木版というものを三回叩いて中から人が出てくるのを待ちました。が、誰も出てきません、叩くのが弱かったのだろうか、遅すぎて締め切ってしまったのだろうかなどといろいろ考えました。中はよく見えませんがなにやら叫び声だけはずっと聞こえています。するとめがねをかけた細い人が出てきまして、尊公は本日十番目に到着した者なので、十番目の和尚と呼ぶことにすると言われました。私がなんと答えればよいのかわからずおろおろしていると、中に入れと言われました。あわててわらじを脱ぎ足袋を脱いで中に入ると、六人くらい壁に向かって正座をしており、三人がなにやらしごかれているといったような感じでした。それに気をとられていると「早くしろ」と言われました、もともとぼさーとしていてのんびりしている私は師匠にもそのことを指摘されておりましたが、のちのちかなりの苦労をすることになり、この「早くしろ」という言葉を一日に何十回と聞かされることになります。
続きは次回ということで、これにて今回は終わりとさせていただきます。ご静聴ありがとうございました。