お涅槃会

定光寺 乙川文英

平成十四年三月十二日 加茂法話会

二月十五日はお釈迦様がお亡くなりになった「涅槃会(ねはんえ)」です。涅槃会は、お釈迦様がお生まれになった仏誕会(ぶったんえ 降誕会 ごうたんえ 四月八日)、さとりを開かれた成道会(じょうどうえ 十二月八日)とならんで、仏教徒にとって大切な記念日です。

拘尸那(くしな)のほとり風おちて 流れはむせぶ如月(きさら ぎ)の
望(もち)の月影きよけれど 儚(はかな)く雲にかげりゆく

双樹(そうじゅ)の沙羅(さら)に咲きみちて ま白き花は匂えども
散るを定めの花なれば はらはら散りてすべもなし

教えのままにしたがいて 戒律(おきて)をまもりゆく道の
そこに仏の命あり 怠るなかれもろびとよ

一きわ花は散りしきる 最後の言葉のこされて
いまし静かに釈迦牟尼は 涅槃の眼(まなこ)とじたもう

「大聖釈迦如来涅槃御和讃(だいしょうしゃかにょ らいねはんごわさん)」

「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去る ものである。怠ることなく修行を完成なさい』と」これが修行をつづけて来 た者の最後のことばであった。

『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』

是の故に当(まさ)に知るべし、世は皆無常なり、会うものは必ず離るることあり。 憂悩(うのう)を懐(いだ)くこと勿れ、世相是(かく) の如し。当に勤め精進して早く解脱を求め、智慧の明(みょう)を以 て、諸の痴暗(ちあん)を滅すべし。

『仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)』(『仏 垂般涅槃略説教誡経(ぶっしはつねはんりゃくせつきょうかいきょう)』)

汝等(なんだち)比丘(びく)、悲悩(ひのう)を懐(いだ) くこと勿(なか)れ。 若(も)し我れ世に住すること一劫(いっこう)するとも、会 うものは亦(ま)た当(まさ)に滅(めっ)すべし。 会うて而も離れざること終(つい)に 得べからず。自利 利人(じりりじん)の法は皆具足(ぐそく)す。若し我久しく住すると も更に所益(しょやく)なけん。当に度すべ き者は、若(も)しは天上人間皆悉(ことごと)く已(す で)に度(ど)す。其の未だ度せざる者には、皆亦(また) 已(すで) に得度(とくど)の因縁を作(な)す。 自今以後(じこんいご)、我が諸の弟子、展転(てんでん)して 之(これ)を行せば、即ちこれ如来の法身(ほっしん)常に 在(いま)して而(しか)も滅せざるなり。

『仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)』

「アーナンダよ、沙羅双樹が、時ならぬのに花が咲き、満開となった。それ らは修行完成者に供養するために、修行完成者の体にふりかかり、降り注ぎ、 散り注いだ。・・・天の楽器は、修行完成者に供養するために、虚空に奏で られた。・・・

しかし、アーナンダよ。修行完成者は、このようなことで敬われ、重んぜら れ、尊ばれ、供養され、尊敬されるのではない。アーナンダよ、いかなる修 行僧、尼僧、在俗信者、在俗信女でも、理法にしたがって実践し、正しく実 践して、法にしたがって行なっている者こそ、修行完成者を敬い、重んじ、 尊び、尊敬し、最上の供養によって供養しているのである。・・・」

『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』

定光寺では、例年春彼岸の中日に、お彼岸会の法要にあわせてお涅槃会の法要を営みます。だんごまきもありますので、どうぞお参りください。