福井県 満願寺 田中孝治

  母は、一風変わった形見を残していった。神代杉の板である。二十七年前、この地区は、圃場整備をしていたが、集落北部の水田から大木が何本も掘り出された。見に行って私も驚いた。五〜六間の長さの泥まみれの丸太の様なものがゴロゴロとしていた。地中で腐り落ちた部分の形が様々で、穴になったものや、えぐれた形になったものなど、私には棒状の彫刻芸術品のように見えた。おおかたは建築業者が持っていったらしいが、そのうちの一本を母が無理を言って分けてもらったということである。母はその翌年、この事業に日雇いに出ていて無理がたたり、体をこわして呆気なく逝ってしまった。昭和四十九年九月末日、私は高校三年だった。母は四十九歳だった。

蟠龍窟 扁額  宮崎禅師御揮毫  田中孝治師 作

それから、二十年後。その当時総代を務めてもらっていた家の年忌法要で聞かせてもらった話。

「亡くなった方丈のお母さんがな、神代杉を一本板にして本堂の縁の下にしまってあるはずや。一ぺん調べてみい。」「お母さんは、方丈の将来をよう心配しとった。いつも口癖に『孝治のため、孝治のため』と言うとったで。」と、そう言われて記憶の底からその頃ことが湧き上がってきた。ああ、そう言えばそんなことがあったな、と縁の下にもぐり一枚を引っ張り出してみた。板に挽かれた神代杉は、虫もつかず、二十七年前と変わらぬ香気を発していた。

  さて、この神代杉の形見をどうしようかとあれこれ考えた矢先、永平寺同安居の東龍寺の宣昭師が、こちらの地区の成道会布教師として派遣され、何年かぶりに再会できた。その話の中で檀信徒会館建設と、そこに掲げる額の話があった。現永平寺貫首宮崎禅師の御染筆で「蟠龍窟」を二階の坐禅堂に掲げたいとの意向を聞き、母が、残してくれた板の話をしたところ、それを使うこととなった。わたしにとっても、額に使ってもらえるのならば形見の木も粗末にならずに結構なことと喜んだ。以前から知っていた人が、木彫額も造るというので木を預けたが、「出来た。」持って来たのを見て、ダメだと感じた。気に入らない。東龍寺の落慶式まであまり日は残っていない。自分で彫ってみよう。間に合わなければ仕方ない、作られて来たものをとりあえず掲げてもらって、後から取り替えに行こうと考えて取りかかった。文字を写し終えて祖彫りに入ったが木が軟らかくて思うようには進まない。ノミは諦めて彫刻刀で最後まで彫った。夜に昼をついで、正味三日間程で上げた。納得の出来ではないが、業者の作よりずっといい。車に積んだ時は塗料は生乾き。綱渡り状態で間に合った。掲げ終わった額を眺めて安堵した。久しぶりに充足感を味わうことが出来ました。