越後奥三面「ふるさとは消えたか」

これは、『越後奥三面−山に生かされた日々』(作品50)の姉妹篇である。
『山に生かされた日々』は、1980年冬から84年春にいたる4年間の記録をまとめたもので、本篇は、それに続き84年6月から1995年秋にいたる11年間の記録をまとめたものである。                       
 1984年6月29日、奥三面の住民代表は、新潟県知事とタム補償基準協定書に調印した。1969年にこの地に県営ダム建設の話がもちあがって以来15年、悩み苦しみ続けた全戸移住問題に決着の賽が投げられたのである。
 そしてこの日から1年半後の85年10月末、奥三面の家は完全になくなった。刻々に、無残に、家々は消滅していった。
 本篇は、その1年半の日々のようすを主軸こしながら、85年10月末以降95年秋にいたる10年間の移住地での生活のようすと人々の思いを織りこみ、さらに人びとの移住後始まった奥三面一帯の考古発掘の結果を織りこんでまとめている。考古発掘によって、この地帯が旧石器時代から縄文時代全期間にわたる大遺跡地帯であることが明らかになり、さらに平安時代の集落さえあらわれてきている。
 消滅した奥三面は、ただ単に奥三面の人たちのふるさとであるばかりではなく、いわば日本人のふるさとともいうべき地なのである。
 85年9月、閉村式の壇上で、奥三面の区長高橋宏氏はこみ上げる激情をおさえながら言った。「先祖に申訳ない」。移住地では、奥三面を恋いつつ、次つぎに年寄りたちが逝った。奥三面のことしか頭にない年寄りも次つぎにあらわれた。
 移住地は、奥深い山岳地帯のまっただなかにあった奥三面とは全く生活環境の違った平坦地であり、しかも都市的環境にある。移住1年目、2年目、人々の重く苦しい日々が続いた。移住地へ通う私たちも、カメラはもちろん録音機も、ノートさえも持ちだせなかった。
 −方、奥三面で幼少期を過ごした子どもたちは成人し、結婚し、孫たちが生れた。奥三面を全く知らない若嫁たちや孫たち、彼らの胸中に何が芽生えてきているか。
 私たちはそこに、ふるさとのよみがえりをみた。

 

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