03/09/30 清原は必要か
今期、巨人が阪神に圧倒的な優勝を許した原因は、ほぼ清原の故障のせい、といってもおかしくない。もしも
西武時代とは言わなくても、2001年ぐらいの成績を残し、四番としてフルシーズン活躍していたら結果は
どうだっただろうか。長嶋監督時代は清原が故障しても何も無かったようにマルティネスを起用しいた。清原
と同じ、いや、清原以上とも言える彼の実力で、十二分に穴を埋めた。原監督は清原に信頼(心の中では邪魔
だと思っているだろうが)しているから、穴埋めは若手のやりくりで何とかしていた。しかしこれは四番松井
の産物であり、高橋→清原→ペタジーニと、どんどん変えていく四番ではやはりうまく機能しない。今から見
ると、多少力は落ちるが、フルシーズン使えて、打率2割8分、25ホームランは堅いマルティネスの残留が
一番よかったのかもしれない。今、一番しなければいけないことは、センター斉藤、ファーストペタジーニで
固定して、清原には辞めさせることではないだろうか。チーム内の”構造改革”をしなければいけない。もし
かしたらベテランが、藤井道路公団総裁みたいに、現役(道路公団総裁)にこだわるかもしれません(笑。で
、結局、野中議員みたいに、”最後までジャイアンツ首脳陣(小泉政権)と戦う”なんてこと言ったりして。
03/09/26 フロント頑張って!
各球団人事に忙しい。オリックスは伊東が監督になる(予定)西武の伊原監督に新監督をお願いするそうだ。
これについては非常によいと思う。西武はいまも大逆転ありえるし、たとえ2位でも優勝→2位は素晴らしい
。それより去年の日本一監督が辞任でダントツ最下位の横浜の頭が涼しい監督が残留って・・・。
これからは別にプロ野球とは無関係なのですが、実はペタジーニって、裏切りの日にうまれたのです。よくぞ
ジャイアンツを裏切ったなといった感じです。成績はいいんですがねぇ。
中日が野村氏(無論ダン野村じゃないよ)に監督をお願いしているという情報がありますがどうでしょうか。
ヤクルト時代みたいにうまくいきますかねぇ。でも阪神と中日の監督交換だと客は入りますよね。何事も客が
入らなければ始まらないもの。うまくいくといいですね。
巨人は堀内監督でベテランをクビにしまくって、また原氏に戻すのかなぁ。何でもよいけどこれぞプロ!とい
うプレーを見たいですよねぇ。
03/09/24 読売巨人軍監督という職業
昨年巨人を日本一に導いた原監督が解任に危機だ。去年名監督、と、このまま優勝しつづけるかのように言わ
れていたのに、原には監督としての才能がない、とか、やっぱり松井がいないとできないのか、とか、あんな
に金をかけているのに何だ、このざまは、とかいわれ、視聴率が取れないといっている奴までいる。悪いが、
テレビ関係者は、職業野球に首を突っ込み過ぎだ。視聴率と監督としての手腕はまったく異なるものであり、
采配がすごすぎていつも勝っているようじゃ視聴者は何も面白くない。逆にいつも負けているようじゃもう放
送しない(巨人と関西地区の阪神は別)。元来巨人の監督は非常に難しい。王氏が辞めさせられたぐらいだか
らその職業の大変さがわかる。ただ成功すればまるで神(少し言い過ぎですが・・・)のような扱いを受ける
。まず急務だと思うのが、清原、工藤、桑田ら、怪我の多いベテラン(おそらくうるさいと・・・)の大幅解
雇。原監督の元で育った選手が多ければそれだけいうことを聞くということ。原監督の采配がよいことは一年
目でわかっているから、監督がやりやすい環境にするのがフロントの仕事。それを逆に苦しめたら意味が無い
。とにかく日本一になった監督の辞任問題が出るなんて・・・。
03/09/12 藤本英雄、魔球スライダー投げる
スライダーの元祖といったら、ボブ・フェラーである。剛速球を武器に、超人的な記録を残しつづけた、偉大
なピッチャーである。では、スライダーは、アメリカから伝わったのだろうか。それは違う。日本には、もう
一人の元祖が存在するのだ。藤本英雄である。藤本は、巨人で、シーズン記録の防御率0点73を記録し、常
時25勝〜35勝を計算できる、大エースである。しかし、肩痛で、良い球が投げれない。全力投球すると、
痛くて痛くて、とても投げれはしなかった。プライドが、ずっと休んでいる自分を許さない。しかし練習しよ
うとしても、痛くてろくな練習が出来ず。軽いキャッチボールをするのみであった。のちに常時3割を打ち、
巨人の主力として活躍し、のちに国鉄の四番となった宇野光雄も、この頃は怪我で、藤本と軽いキャッチボー
ルをやっていた。無論怪我人は、脇で、影に隠れてひっそりしている。川上や千葉などの中心選手は、練習中
も、ファンから見られ、「川上、今日は一発頼むぞ〜」とか、「中尾、今日は完封しろよ〜」とか言われてい
る中で、宇野、藤本コンビは、ひっそりとキャッチボールを続けた。ついに藤本は外野手として使われてしま
うが、外野手もだめで、ファンから野次も飛ぶ。しかし、このキャッチボールがスライダーの元となる。その
日も宇野と藤本はキャッチボールをやった。すると、宇野が、おもしろい、と言うのでなにが面白いんだ、と
藤本が聞くと、宇野は、横滑りする、と言う。当時の変化球と言えばカーブや、たまにシュートを投げるピッ
チャーがいるだけで、変化球は、とても貴重だった。シュートといってもテレビゲームのように横を曲がるの
ではなく、縦の落ちるのがほとんどであった。横滑りする変化球と言うのは革命的で、横滑りする変化球を使
うと、良い成績が残る。藤本は、こうして元祖スライダーとなったのである。藤本が、この変化球がスライダ
ーなのを、ボブ・フェラーの書いた本で、初めて知った。
03/09/06 セカンド 2
1998年、弱いチームの象徴的存在とも言える、横浜(無論、前身の大洋も)が優勝した。1960年の就
任1年目で優勝させた三原脩と同じように、就任1年目で優勝させた権藤監督。この優勝は、”マシンガン打
線”によって成し遂げられた、と言っても良いぐらいだろう。そのマシンガン打線の、主砲であったのが、R
・ローズである。大体の外国人選手は、一塁、あるいは指名打者であるが、ローズは珍しく、二塁であった。
ハードなポジションでありながら、打率3割3分、ホームラン20本ぐらいの成績を残せているし、99年に
は、史上第2位の、シーズン153打点、そして打率3割6分9厘、ホームラン37本は、驚異的である。正
に、”打てるセカンド”である。”打てるショート”は、よく言うけれど、打撃優秀なセカンドも非常に貴重
な存在である。大体の強打者は、一塁、外野、三塁である。三塁は、長嶋茂雄、中西太が代表格であり、一塁
は、”世界のホームラン王”王貞治、加藤秀司に、落合博満。外野は、若松に張本、長池である。いかにロー
ズが素晴らしいかわかっていただけていただろうか。所で、二塁で一番ゴールデングラブ賞をとった選手をご
存知だろうか。その選手は黄金時代を支え、伝説の好走塁をしたあの選手、辻発彦である。Gグラブ賞を二塁
手最多の8回獲得している。この選手は、三原西鉄、V9巨人、上田阪急と肩を並べる最強軍団である、森西
武の守備の要であり、打撃、走塁、守備すべてがねちっこい”ミスターねっちこい”であろう。
03/09/05 セカンド
”苅田の前に苅田なく、苅田の後に苅田なし”この、苅田とは、俊足でも、強肩でもないのに、驚くべき予測
力で、”間一髪で横っ飛び!すぐ立ち直って強肩でアウト!”と言うのではなく、”ニ遊間、あぁっと、なん
と苅田が正面にいたぁ!”であった。しかし、これは戦後の話。実はもともとは遊撃手だったから、俊足、強
肩であった。それだったから、まさに”鬼に金棒”である。”ニ遊間、おぉーともうすでに正面にいたぁ!し
かしバッターは俊足の〇〇、もう一塁につきそうだ!おぉっと、苅田の強肩がものをいった!アウト!”これ
が、究極の二塁手の守備ではないか。あまり知られていないが、苅田は、沢村がメジャーリーグ最強軍団に対
し、1失点完投の好投を見せた時の、四番・遊撃であった。つまり当時、打撃も素晴らしかったと言うことに
なる。ちなみにプロに入ってから、二塁に回り、戦前は、神業とも言える俊敏、分析、肩力と、三拍子そろっ
た名選手であった。戦後の苅田の方が有名であるが、戦前の方が凄かった。昔は、遊撃手があまったとか、軽
快な動きだけど弱肩とか、往年の名ショートの晩年とかに守ったから、それなりのものであったが、落合のよ
うに、一塁は、外国人、指名打者も外国人、三塁はスター選手、ショートは肩が弱いし、脚も速くないから無
理。だから二塁。と言う選手もいる。大体各球団二塁がいない。三塁は、強打者、遊撃は俊足選手、一塁は、
外国人で、二塁も少し難しいから、と言う理由で、ユーティリティープレーヤーと言うか、便利屋的選手が守
ることが多い。やっぱり固定した方が良いと思う。仁志と二岡とのニ遊間や、小坂、酒井の二遊間は見ていて
おもしろい。次回も二塁手にします。
03/09/03 橋本先生がベストナイン
あるとき、スタンレー橋本と、言う選手を発見したので調べてみた。理由は、名前が珍しいからだ。これが非
常に珍しい経歴なのだ。なんと、メジャーリーグの名門チーム、レッドソックス出身である。橋本のいたとき
は、メジャー出身いや、アメリカで野球をしていた、と、言うだけで超大物扱い。で、レッドソックスだけで
はなにも異色では無い。実はその後、小学校の先生になっていたのだ。多彩な才能を持っているもんだ。そし
て元メジャーリーガー経歴を知った東映が誘い、入団。そして1959年にファーストでベストナインを受賞
。こんな、野球史上まれな異色選手は、1961年に、前年奇跡の優勝をした大洋に移籍。しかし、衰え隠せ
ずに引退した。今、何故こんな話をするかと言うと、この選手と肩を並べる、いやもっと空前の出来事が起こ
ろうとしているからだ。それは、日本ハムに、史上初の女性選手が入団しそうだとのこと。マスコミが嫌と言
うほどしつこく追っかけてくるであろうが、是非合格して、活躍して欲しいと思う。
03/09/02 連続記録
今日、オリックス・塩谷が24試合連続安打を記録した。連続試合安打は、いったん途切れると1からだから
、非常に神経をすり減らす。打点も、ホームランの数も減らないが、連続記録は途切れたらゼロからのスター
トであり、再度また記録を作ることなど、まさに神業である。ジョー・ディマジオは、有名な56試合連続安
打は有名だが、その後一試合無安打であったが、すぐに立ち直り、16試合連続安打を記録した。まさに最高
のスターではないのか。ちなみにディマジオが活躍していた頃は、チームメートには、”アイアンホース”ル
ー・ゲーリッグがいた。晩年であったが、存在感は抜群であった。チーム外では”最後の4割打者”テッド・
ウィリアムズ”、”ラビット・ロバート”ボブ・フェラー、”ザ・マン”スタン・ミュージアルら、大スター
がひしめき、メジャーリーグは黄金時代を迎えた。有名な56試合連続安打が始まった試合はインディアンス
投手陣であったが、連続試合安打記録をとめたのも、インディアンスの投手陣であった。何たる皮肉。ディマ
ジオの栄光の始まりはインディアンス投手軍、終わりも同チーム投手軍。さて、塩谷の記録はどこまで続くか
。この記録に面白いドラマがあるのか・・・ワクワクするし、健闘を祈るばかりである。ぜひ、頑張っていた
だきたい。
03/08/31 ディマジオの超スーパープレー
日本のセンターと言ったら、打撃なら松井、守備・走塁なら福本だろう。しかしメジャーだと打撃でも、守備
でも、走りでも全てがパーフェクトな選手が二人いる。それが今回紹介する、ジョー・ディマジオと、トリス
・スピーカーである。スピーカーは、総合面ではタイ・カッブ以上と言われ、通算安打3515本、通算打率
3割4分5厘の大打者である。しかし何と言っても守備がものすごい。詳しくは後日お伝えすることにして、
今回はもう一人の最高のセンター、ジョー・ディマジオの最高のファインプレーを紹介する。ディマジオは、
強肩に加え、俊足でやろうと思えば外野全てをまかなえると思えるほどの俊足と、確実な捕球力で、ヤンキー
スを何度も救った。ファインプレーは数え切れぬほどあったが、どれも素晴らしいものであった。どの中でも
特に素晴らしかったのはなんと言っても1939年8月2日のものであろう。実を言えばこれは勝敗に関係が
ない。このファインプレーは、9回表のタイガースの攻撃のときであった。この日はタイガース打線が爆発し
、もう7点とっていた。9回もランナーを出し、天下の強打者のハンク・グリーンバーグがバッターボックス
に立った。グリーンバーグがフルスイングすると、センターの一番深いところに大飛球を打った。そのとき瞬
発的に後ろへスタートを切った。強靭な脚力はものすごいスピードで走り抜け、グラブを差し出すとボールが
中に吸い込まれるようにして入った。取れなければ打球はフェンスに当たり、確実に一点追加したはずだが、
ディマジオが取ったので、三塁と二塁の間のいた走者は慌てて戻った。二塁につくかつかないかの時にディマ
ジオの矢のような送球が返って来た。タイミングはアウトであったが遊撃手に当たってセーフとなって空前絶
後の”大飛球捕球さらにダブルプレー”の究極の妙技が完成しなかったが、この妙技は史上最高のファインプ
レーであることは間違い無い。
03/08/30 名将三原、田舎球団・西鉄へ
三原と言えば、最強軍団西鉄を率いた名将であるが、西鉄に入ったときのことは知られていないからそのこと
でも書こう。プロ野球のOBは、どうも背広姿が嫌いらしい。三原もその一人であった。球団事務は球団代表
、現場の方は監督の水原がやっている。ただ、巨人軍に所属しているだけで、なにも出来ない。そこに西鉄の
主将の名投手川崎が、球団創立1年しかたっていない新しいチームであった西鉄はボロボロだ、と伝えた。三
原は何のことだと思った。巨人軍は”紳士たれ”であるから揉め事などないのである。揉め事と言えば阪神が
悪名高い。政治家の派閥のように、吉田派、村山派、監督・OB・コーチ派に分かれていた。それとは少し違
う西鉄の状況。出来たての西鉄はやはりノンプロの花形を集めたような状況であった。それゆえに”自分はセ
カンドしかやらない。他のところをやらせられたらわざとエラーする”と、言うような選手が多く、監督が、
”こいつはセカンドで、打撃が良いが、他に守備の良いセカンドがいるから外野にまわそう”と思い、コンバ
ートして、試合に出した。するとぽろぽろボールを落とす。だから監督が、怒ったらこう言った。「内野手が
外野でエラーしてもしょうがねぇ。これは監督のエラーだ」と、例を出した。そこで球界の大御所、三原脩が
監督になり一喝!と言う川崎であった。三原はどうしようかと迷ったが、川崎が代表の西に会わせた。西は、
「強いチームになるなら費用は惜しみません。満員にすればモトが取れる、簡単な計算でしょうが」と言った
。三原は西の熱意に答え、監督に就任。黄金時代を築いた。”三原、西鉄の監督に就任”のニュースをスポー
ツ紙が大々的に報じたことは言うまでも無い。
03/08/29 炎のエース 村山実
村山と言うと、長嶋に”天覧ホームラン”を打たれたことだけが注目される。しかし安定感なら金田より上で
ある。1年目に防御率が1点台前半で18勝。実は阪神の4倍の契約金を出すと巨人側が提示したのだがすぐ
に阪神に入団。星野は巨人に裏切られたのが原因だが村山は根っからの反巨人であった。特に長嶋との対決は
燃えに燃えた。ちなみに天覧試合は、阪神の超豪華、小山、村山のリレー。村山222勝、小山320勝で、
合計542勝!こんなに豪華な投手陣を見ると、奇跡を感じる。それに天覧試合ではON初のアベックアーチ
。この二人は言わずと知れた最強コンビ。これも奇跡的である。運命のめぐり合わせか。20勝5回、10勝
11回。防御率1点台が5回。防御率2点台12回。ちなみに全ての年が防御率3点台以下という優秀さ。素
晴らしい。江夏もそう、村山もそう、阪神のエースはライバルがいる。藪は清原であろうか(笑。通算200
0奪三振も、1500奪三振も、どちらの記録達成も長嶋が相手である。村山は意外な記録を持っている。日
米最強投手列伝にも書いたが、戦後でただ一人の年間防御率0点台である。この記録は、”5回3失点の法則
”ではできない。”絶対完封!”しかないのだ。村山は記録でも、伝説でも文句無しのエースである。
参考ページ
村山の年度別成績
03/08/28 広島・長谷川の信じがたい入団劇
現在は、新人の契約金1億や年俸1500万とまだ働いていない選手がいきなり高給取になっている。甲子園
や神宮にスカウトを派遣し、有力株を探すのは今も昔も変わらぬが、給料とあともう一つの点で大きく変わっ
た。今はドラフト制度で、この選手が入団した、とすぐわかる。では昔はどうだったのだろう。昭和3、40
年代の南海を象徴する名将、鶴岡(山本)は遠征に行くと、地元で選手を探し、良い選手が見つかるとすぐに
球団に手配し、契約金を渡し、すぐにプレーさせた、との話である。これでも驚くが、これは当時としては普
通であり、なにも不思議ではないことである。しかし一風、と言うよりは非常に変わっている入団劇がある。
それは前に書いた天下の大投手、長谷川良平の入団劇だ。監督の石本が不在で元巨人の白石助監督がノックを
しようとしていたときに、白石のマネージャーが「面会人です」と言ったのでとりあえず行く。すると中年の
男と小柄な青年が立っていた。ノックをコーチに任せた。「監督不在で申し訳ございませんが、どんなご用事
でしょうか」無論白石はこの二人の事を知らない。「こいつは投手志願でして、名前は長谷川良平と申します
」小柄な青年が頭を下げる。「投手志願ですって?」その後、中日のテストでだめだったことなどを話し、白
石は、”創立したばかりのチーム。人気が大事”と思い、形式だけでもさせて帰らせよう、と思った。捕手の
坂田を呼び、「キャッチングしてやれ」と言う。後の”小さな大投手”は、ユニフォームに着替え、スパイク
をはいて待ち構えていた。挨拶をしてピッチングをはじめる。しかたなく白石が坂田の後ろに立つ。するとコ
ンロールは良いし、なんといってもシュートが切れる。白石はその投球に引かれていった。「シュートをもう
一度」と注文すると、ものの見事に、低く、切れて、ストライクゾーン一杯。制球絶妙。即入団。こんな形式
的そのもののテストでのスタートだったチビッコ投手が大投手になるとは誰も予想していなかったか白石がす
ごかったのか。 昨日の分まで書こうと思ったら・・・ 書 き す ぎ た ! 以上です(笑
03/08/26 1941年 〜空前の大記録ラッシュ〜
1941年は、メジャーリーグの永い歴史の中でも一番ファンを熱狂させた年ではないだろうか。と、言うの
も、二人の大打者による、二つの大記録が生まれたのである。それも並みの記録ではない。一方は、最後の4
割打者となる4割6厘を記録したテッド・ウイリアムズであり もう一方は空前絶後の56試合連続安打を記
録した、ジョー・ディマジオである。この二人の活躍の象徴的な試合、それが年に一度のオールスターゲーム
なのである。この日は、人気者、ジョー・ディマジオが4番で、最後の4割打者、テッド・ウイリアムズが5
番であった。この試合は3対5でナショナル・リーグ(以下、NL)リード。このまま負けてたまるかと、A
L(アメリカン・リーグ)は一死満塁の大チャンスで48試合連続安打継続中のジョー・ディマジオ。しかし
強烈なゴロがショート正面に行く。ゲッツーで試合終了と思われたが、一塁走者トラビスが強烈なスライディ
ング。その間に1点返す。そして大打者、テッド・ウイリアムズが打席に立つ。そしてカウント1−2から打
つと、打球はぐんぐん伸びた。三階席の屋根にはね返る特大ホームランとなった。その日はジョー・ディマジ
オ3安打、テッド・ウイリアムズがサヨナラホームランで、この年の大活躍を象徴する大活躍であった。ジョ
ー・ディマジオは7月16日まで連続安打記録を続け、なんと56試合連続安打を記録、そしてテッド・ウイ
リアムズは最後の4割打者となった。二人の大打者によって作られた大記録は今も輝きつづけている。
03/08/25 景浦将の超特大ホームラン
超特大ホームランといえば、言うまでもなく、西鉄黄金時代を支えた大打者、中西太であろう。平和台球場の
特大ホームランは有名で、名将三原脩は、”苅田の前に苅田なく、苅田の後に苅田なし”をもじって、”中西
の前に中西なく、中西の後に中西なし”と言った。では今回は、中西太、ではなくもっと昔の景浦将の、”太
平洋ホームラン”を紹介する。景浦は、投手、野手の二刀流で、打者で打点王獲得、投手では防御率0点93
を記録し、阪神のエースで四番として君臨した。そして今回紹介する大ホームランが生まれた試合は、初めて
の日本一決定戦の初戦であった。全3試合で、景浦率いる阪神タイガースが1勝2敗で負けたが、景浦のホー
ムランの影響は大きかった。その試合は、伝説の大投手、沢村栄治の好投で、0対4で巨人がリード。4回無
死走者一塁二塁でバッターボックスに立った景浦は沢村自慢のドロップ(現在のカーブ)を見事に打ち返し、
レフト外野席を軽々超え、ぐんぐん伸びて、場外へ消えていった。世間の野球ファンは、”景浦の目は縦に付
いている”といった。打者としても投手としてもタイトルを取り、歴代第二位の防御率の記録保持者、景浦将
は、油の乗った25歳から27歳まで兵隊になって、一年プレーした後、また戦争に出向いた。そして、フィ
リピン兵に襲われ、29歳の若さで戦死した。奇しくも戦後、景浦なしのタイガースが、“ダイナマイト打線
”を形成し、他球団を恐怖におとしいれたのである。戦後の活躍が確実だっただけに、惜しまれる死である。
03/08/24 西沢道夫 〜中日を支えた主砲〜
今、中日には主砲と呼べる選手がいない。チャンスに強く、ホームラン、打率とも高い水準を残す選手は中日
に限らず、全てのチームがのどから手が出るほど欲しいのではないか。そこで今回は”初代満塁男”の西沢道
夫を紹介する。西沢は、昭和24年に25試合連続安打を記録した。あまりにも快打を連発するから当時弱小
の阪急は、”西沢シフト”と呼ばれる守備をとる。具体的には、王が左打者だから極端にライト方向で守った
ように、西沢が右打者だから極端にレフト方向で守ったのである。これではたまらない。引っ張りの打者であ
ったから大ピンチである。王のように、強引に打ってホームランにすると言うことは、外国人のように腕力が
あるか、王のように究極のパワーヒッターでなければできない。西沢は普段しないことをした。流し打ちであ
る。打てばヒットの西沢はどうってことないように思ったであろうが、なれていないことをやるとプロではほ
とんど失敗する。あえなく4打数無安打であった。皮肉にも次の日には2本の快打をかっ飛ばした。西沢は投
手でも優秀で、無安打無失点(ノーヒットノーラン)を記録して、その年は20勝した。しかしその後、パッ
とせず、打者に転向。大打者、西沢の誕生である。西沢が特に素晴らしかった年は、1950年、昭和25年
である。シーズン記録の満塁ホームラン5本は恐らく不滅であろう。この年はホームラン46本、打点135
、打率3割1分1厘と言う活躍。前年は記録ずくめで25試合連続安打、11試合連続打点と大活躍であった
。中日が生んだ大打者である。
03/08/23 長谷川良平 〜広島を救った大エース〜
今年は昭和33年(1958年)と同じく、各球団エース好調である。そこで今回は取っておきのエースを紹
介する。元広島の長谷川良平である。知っている人は恐らくいないであろうこの投手。巨人にいたら300勝
は堅かったといわれる。酒や遊びを断ち、と言われるが本当かどうかはわからないが、おそらくそうなのだろ
う。広島は弱小球団であり、勝利数が半減する。国鉄も弱かったが、4位ぐらいであった。ちなみに長谷川の
1年目は広島カープの1年目であり、一気に選手を集めなければならなかったから、シュートが切れる長谷川
をいれたのである。別に甲子園優勝投手でも社会人の大物でも大学記録を打ちたてた大スターでもないが、選
手不足の広島カープ。資金力もないから補強も出来ずにしかたなく若い未熟な選手を使いつづけて、その中で
長谷川も投入される。これが見事な投球を見せ、一気に登板する。エースとなったからにはマウンドに立ち、
投げつづけるのが長谷川と言う選手の素晴らしさであり、魅力であった。選手がいないから長谷川が投手陣の
全てをまかなう。良くも悪くも長谷川次第。なんとチームの半分が長谷川によるもの、なんてこともある。3
2勝中17勝とか58勝中30勝とかで、球団創立2年目に”勝率が3割以下のチームは出て行け”と言う制
度が出来た。前年に勝率3割以下なのは広島だけであり、あからさまに広島を追い出そうとしていた。これを
救ったのも大エース長谷川であった。そこでチームの勝利数の半分以上を稼いで、チームを救ったのだから、
今広島があるのは長谷川のおかげと言っても良いぐらいである。こんな大エースもついに200勝を達成でき
なかった。しかし弱小球団を救い、気迫だけで投げているとも言われた大エースの勇姿は、永遠に残るであろ
う。
03/08/22 名手 ボイヤー
元大洋のボイヤーという選手をご存知だろうか。外国人選手では珍しい、守備の名手である。ヤンキースのレ
ギュラーで、ワールドシリーズに6回出場、通算試合出場数が1725と、空前絶後の大物メジャーリーガー
であった。当時の別当監督は、「本当のプロの三塁手があれだ。華麗で楽しめて正確」といったそうだ。大洋
の選手は、”ドクターベースボール”と言い、よくボイヤーの部屋に集まった。35歳入団で、よくもここま
で華麗な守備をしたものである。そのときは名手の三塁手が他にもいた。言わずと知れたスタープレイヤー、
長嶋茂雄や”ライオン丸”シピンである。ボイヤーは、長嶋の守備を理解していたと本に書いてあったが本当
か嘘か・・・。打撃の方は打率にむらがあり、2割2分になったり2割8分になったりした。ホームランは、
15本から20本ぐらいで、6,7番でポイントゲッター、と言ったところか。さて、今年のプロ野球には、
ボイヤー級の名手がいるのか。近年のプロ野球は、川相、久慈など、名手の高齢化が進む。今、最も確実で、
ベテラン以外の選手は小坂ではないか。松井も華麗な守備だが、時々ミスをする。少し守備が荒い。宮本も素
晴らしいが、多少衰えを感じる。石井もそうだ。そこで現れたのが、シーツである。打撃は期待していなかっ
たようだが、コンパクトで良い打撃だと思う。打率も高い。それにあの華麗な守備。確実だが華麗。強打者も
良いが、名手も良いぞ。
03/08/21 エディー・コリンズ&川相昌弘
昨日、川相昌弘内野手がバントの世界記録を達成した。よくもここまで腐らずコツコツとやってきたものであ
る。では今まで世界記録を持っていた選手とは誰なのだろうか。それは史上最強の二塁手、エディー・コリン
ズである。コリンズは通算安打3312本、通算打率3割3分3厘のメジャーリーグ屈指の強打者であった。
無論強打者であったから、クリーンアップを打っていた。タイ・カッブも史上最強の二塁手はコリンズと認め
る実力はすごい。それでいて、俊足で、通算盗塁数は744。盗塁王も4回取る。そう考えると川相の記録を
否定しているように思うかもしれない。しかし、川相も素晴らしい。まず、川相はバントをしなくても良かっ
たのである。川相は守備が天下一品である。これだけで野球界で生きて行ける。それに状況に応じた器用な打
撃。これこそ”うまみのある打撃”ではないか。そしてどこのポジションでも守れる守備。これからも頑張れ
!川相!
参考ページ
コリンズの年度別成績
03/08/20 大打者 川上哲治
前回が川上引退の年だったので、今回は川上哲治のことを書こう。日本で最初の2000本安打達成者であり、
神様とまで言われた大打者である。注目したいのは、2リーグ制になった1950年。もともと足が速いわけ
ではないのだが、ムキになって盗塁し、なんと34盗塁。打率も3割1分3厘。惜しくもホームランが29本
で、3−30−30は達成できなかったが、それでも素晴らしい成績である。川上と”じゃじゃ馬”青田昇と
で形成した3,4番は他球団の脅威となった。あるとき、青田が素振りをしていて、そろそろやめようと思っ
たとき、隣にすんでいる川上が素振りをしている感じがする。青田は、「神様と言われている川上さんが練習
しているんだから、若い俺は休んでいられない」と、練習を続ける。そしてやめられなくなったと言うぐらい
川上、青田のコンビは練習熱心であった。川上は、「青田が止めない限り俺もやめられんだろうが」と言って
いたが・・・。とにもかくにも練習熱心な川上と青田はバッティングゲージにいつまでもたっていて、他の選
手は2,3球確認するだけで試合をやったそうだ。しかし、頂点を極めた川上も衰えには勝てず。58年には
2割4分6厘にも落ちた。4番から5番、5番から6番と打順がじりじりと下がった。日本で4番が最も優秀
な打者がなる打順となったのは球界一の打者、川上哲治が4番を打っていたのが原因である。その、元祖4番
の川上もついに新人長嶋茂雄に抜かれる。日本シリーズでも宿敵、西鉄に敗れ、ついに永遠に打ちつづけると
も思われた”打撃の神様”川上哲治も引退となったのである。
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川上の年度別成績 川上の伝説
03/08/19 1958年〜激動の年〜
第一回の今日は、1958年のことを記そうと思う。熟年あるいは熱心なプロ野球ファンならわかると思うが、
長嶋茂雄の一年目の年である。この年は、三原西鉄の最後の日本一の年であり、川上哲治引退の年でもある。
川上の他にも、”ミスタータイガース”藤村富美男、”満塁男”西沢道夫、”和製ディマジオ”小鶴誠ら、戦
前派四大打者が次々と引退。今のプロ野球だったらたちまち滅びたに違いない。しかし当時の人気絶頂、黄金
時代のプロ野球。王貞治、村山実が入団。新たなる時代が始まる。この年は各球団エース好調。金田正一、長
嶋茂雄入団で燃えに燃える。なんと31勝。稲尾和久相変わらずの安定感。金田の上を行く33勝。最強巨人
はMVP藤田元司でセ・リーグ制す。南海は大物ルーキー杉浦忠が大健闘。新人ながら27勝。阪急は”ガソ
リンタンク”米田哲也が23勝。土橋正幸は16奪三振の好投を含む21勝。打者沈没である。その中での長
嶋茂雄の打点王、本塁打王は圧倒である。やはり天才だ。実は一塁ベース踏み忘れ事件で本塁打一本損をした
わけだから、なんと新人で3割30本30盗塁を達成していたのである。長嶋茂雄、恐るべし。2年目は首位
打者を獲得。なんと2年目にして打撃三冠部門すべてを獲得。長嶋茂雄は記録も素晴らしいのである。
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