新潟県募集相談員連合会部隊研修 呉・江田島
平成14年10月29日〜31日
今回の部隊研修が有意義なものになることは新潟空港で 手荷物を預けたところからハッキリわかっていました。 手荷物札の番号がご覧の通り。 受付の女の子に思わず言ってしまいました。 「絶対に飛行機、落ちないね。キリ番の記念品はないの?」 「こちらの札が記念品となっております。」 「 ・・・ありがとう。」 |
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50人乗りのJ-AIR CRJ200 は揺れもせず快適でした。 新潟県内上空は少し雲が出ていましたが小松を過ぎたあたりから 広島に着陸するまで素晴らしい夜景を楽しみながらのフライト。 あんちゅうは夜の飛行機は初めてで、航空士の同期やJASの パイロットをしている木村はこんな世界も知っているのかと 羨ましくなりました。 |
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11月30日0850 呉潜水艦訓練隊で黒木悦郎の 変わらぬ姿に胸がジーンときました。昨年の4月に胃の手術を 受けたとのことでしたが元気な姿に安心しました。 江田島に渡り、「黒木はちーとも変わりなかったぞ。」と高橋に 言ったら、高橋曰く、「あんちゅうは生徒時代の黒木と現在の 黒木だけ見ていて途中抜けているから。」と言っていました。 高橋に言わせると手術前はだいぶ太っていたようですね。 無理をせず、そこそこに頑張ってください。 |
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黒木の案内で潜水艦訓練隊施設の各所を見学しました。 学生たちが真剣になって講義に実習に励んでいました。 ここは、実際の潜水艦の中枢部と同じように作られていて 潜水艦のりなら必ず実習に使うところ。 相談員全員が中に乗り組み実際の潜水艦の動きを体験させて 貰いました。 |
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訓練隊の施設内にある潜水艦資料室。 近年出来たそうで見学者も多いとか。 「やえしお」の廃艦時の乗組員だった黒木も 「伍長 曹長 黒木悦郎」の字が写真とともに展示されていました。 |
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潜水艦資料室の窓から見た潜水艦バース。 他に3隻、合計6隻の潜水艦が係留されていました。 ここには生徒1年の時、見学に訪れて以来でした。 当時、お昼頃見学に行くと昼飯をご馳走してくれ、しかも 潜水艦の食事は豪勢と聞いていました。 誰といったか、実際に昼飯をご馳走になったかは記憶の糸を たどっても思い出されませんでした。 |
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潜水艦バースで上田三佐夫が来てくれました。 上田とはメールでやり取りしているので前日呑んだばかりの ような感じ。でも、実際は25周年以来の7年ぶりでした。 内部を見学したのは手前の SS586 あらしお 副長の説明を聞きながら内部を見学し黒木もいっしょに 説明してくれました。潜水艦のりの条件は閉所恐怖症でない事と ジーっとしていても耐えられる事とか。確かに狭い。でぶった あんちゅうにはとても潜水艦のりはムリと実感しました。 |
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早瀬大橋 呉で黒木・上田と別れ、陸路江田島へ。 呉潜水艦バースでは自衛官全員が帽フレをしてくれ、相談員の 全員が大感激。聞くところによると陸自や空自に研修に行っても そのような慣習がないとか。「何にも号令らしきものがないのに いつの間にやら整列して帽フレ、スバラシイ!!」 海上自衛隊のイメージアップに大いに貢献して貰いました。 この道は高橋が毎日通勤している道路で呉より1術校まで 約45分〜50分。 |
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昼食会。新潟地連の心遣いで平井校長の隣でした。 平井校長が会場においでになったときあんちゅうは思わず 立ってお迎えしました。8月17日に会ったときはプライベートで 私服。なんとか制服の校長に会いたいと叶わぬ願いが叶った 瞬間で緊張しながら昼食を共にしました。 食事の後、平井校長が江田島の歴史について皆さんに説明 されました。 |
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昼食会場に高橋良彦が出迎えてくれました。 昼食後、高橋と共に平井校長の部屋に誘われ伺いました。 建物自体は古い木造でしたがさすが校長室、手入れが行き届いて 重厚さを感じる部屋でした。手前のソファーに座りしばらく談笑。 この部屋の下に18期の金子君が勤務しています。 「生徒時代、これ(ゲンコ)をやらなかっただろうか?」と金子君に 言った所、「全然ありませんでした。」との事。もし、やっていたら 謝ろうと思っていたのでホッとしました。 あんちゅうがハンドボールをしていた事が記憶にあり、 隠れ17Th Homeのファンだと話してくれました。 |
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広報官と高橋の案内で大講堂の中を見学しました。 昭和46年4月、クリクリ坊主でこの大講堂の中にいた自分が はっきりと思い出されました。同行の皆さん方とはちょっと違って 厳粛な気持で内部を見学しました。 |
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赤レンガの幹部候補生学校は現在工事中でした。 ここより教育参考館の内部まで平井校長も案内をしてくれました。 教育参考館では館長自らが説明していただき感激しました。 |
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第1術科学校は新築され4階建ての新しい建物になって いましたが、チョと見は昔の建物と間違えそうな同じ様な感じに 新築されていました。 海岸や校内の松林は松食い虫の被害も若干あるようですが 相変わらず掃除が行き届いていて、熊手の跡もはっきり。 相談員全員が信じられない様な感じで散策しました。 |
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昭和50年、校舎からここまで後輩や父兄や教官が見送る中を 涙しながら行進し、17期は全国各地の部隊に散って行きました。 1年の時、ここから出て行った14期生の卒業式を見て、苦しくても 辛くても頑張ろう。俺もぜったい、卒業してやる! と 心に誓った 事を思い出します。何の変哲もない桟橋ですがここから出て行った 多くの者にとってはその時の感激を新たにする大切な桟橋です。 |
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戦艦陸奥の主砲が影を落とすグランドと古鷹山 グランドは毎日、暗くなるまでラグビーで鍛えられました。 古鷹山は弥山登山競技の練習として駆け足で登りました。 第1術科学校も4階建てになっただけで変わらぬ風景に しばし見とれてしまい、当時の厳しくも楽しかった事が頭の中を 駆け巡りました。 |
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研修も終盤になんと、石橋教官にお会いしました。 石橋教官は陸戦の教官です。「オィッチニー!オィッチニー!」と 張りのあるよく通る声で隊行進の指導を受けました。 当時、赤銅色の顔で前か後かわからない?真っ黒な顔をして いましたが、あれは日焼けで実は色白だったのだと30数年ぶりに 認識を新たにしました。 10分ほど話をした後分かれましたが、振り返るとさっそうと歩いて いて、心の中で「オィッチニー!オィッチニー!」と 言ってしましました。 |
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短かった江田島研修も終り、切串より江田島を後にしました。 1術校では平井校長も帽フレで見送ってくれ、相談員一同、 感謝、感激でした。 今度、訪れるのはいつになることやらと思うとミョーに後姿が 寂しげなあんちゅうでありました。 |
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広島平和公園を1時間ほど見学しました。 千羽鶴の架けてある所では何処かの小学生が平和の願いを 詩に託し朗読と歌を捧げていました。どの子も真剣で大きな声を 出し、しばらく聞いていると思わずホロッとしました。 かなり長い時間、祈りの朗読は続いていました。 |
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ホテルの部屋に入るや否や藤原から電話があり今、ロビーに 来ているとの事。すぐに降りて行きホテルの近くの喫茶店で 4、50分話をしました。 相変わらずのイントネーションの魔術師藤原クンの藤原弁に スッカリ酔ってしまい気持のいい時間を過ごせました。 この後も会社で仕事との事。忙しい中、会いに来てくれて 嬉しかった。 |
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2次会で広島地連ご用達だという噂のあるヴヴへ。 かなりハードな日程にもかかわらず、広島の夜はいかがとばかり 多くの相談員と共に楽しみました。 このコースターは黙って持ってきたものではありません。 女の子に「記念に一枚くれない?」といったら「ええよ。二枚持って いきんさい。」と渡してくれました。 広島の子は優しい。 |
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お世話になった平井校長始め、同期諸兄、各部隊の関係者の 皆さん、本当にありがとうございました。また、新潟地連の皆さん ありがとうございました。 相談員の皆さん、ご苦労様でした。今回の部隊研修で海上自衛隊 のイメージが高まったでしょうか。 短かったけど充実の呉・江田島部隊研修も終り、空路新潟へ。 |