調査結果その2-2桁目-
長くなったので(;´瓜`)、改めて2桁目。
2桁目-第1問-(ユリウス)
それでは、本日からシークレットイベントの問題を出していきます。
前回よりも少し難しくなっているようですが、みなさん、最後まで頑張ってくださいね。
第1問。「次の3つの言葉から連想される国王の名前に含まれる数字を答えよ。
/ロビン=フッド/カンタベリー大司教/インノケンティウス3世」。
いかがでしょうか?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』
ジョン(John, 1167年12月24日 - 1216年10月18日または10月19日)
プランタジネット朝第3代イングランド王(在位1199年 - 1216年)。
イングランド王ヘンリー2世の末子。ヘンリー2世が幼年のジョンに領土を与えなかったことから、欠地王 (Lackland) と呼ばれる。
兄リチャード1世が戦いに明け暮れ長くイングランドを留守にしたため、イングランド王の勢力を削ごうとする
フランスに唆されて王位簒奪を夢見ていた。
1199年、リチャード1世が中部フランスで戦死するとイングランド王を継承した。
王位に就いたジョンはフランス国内の領土をめぐって、フランス王フィリップ2世をはじめとするフランスの諸侯と対立し、
その戦いにことごとく破れ1214年までに多くの領土を失った。また、1208年にはカンタベリー大司教の任命をめぐって、
ローマ教皇インノケンティウス3世と争い破門されると、1213年に謝罪してその軍門に下った。
こうした外交政策の失敗の後、課税をめぐってイングランド国内の諸侯の反発を招き、1215年にマグナカルタが成立した。
しかし、教皇インノケンティウス3世により王権侵害によりわずか2ヶ月で廃棄された。
マグナカルタの廃棄宣言に不満を持つ貴族たちは、フィリップ2世の長男ルイを支援を得て反乱を起こした。
戦乱の中、1216年10月、ジョンは赤痢により死去した。
ロビンフットやら歴史の教科書やらで大変悪名の高い「ジョン欠地王」です。
私もこれを見るまでフィリップに大陸にあった領地を奪われたあげく、マグナ・カルタを押しつけられた
「失地王」だと思っていましたが、 ヘンリー二世が領地を子供に分けたときにまだ小さくて
領地がもらえなかった「土地無し王」という意味らしいです。
http://wsn.31rsm.ne.jp/~s-scrap/cinema/wlion.htm
_EO引用_
A. 0 (名前に数字がない場合は0とするルール)
2桁目-第2問-(ユリウス)
こんばんは。昨日の問題はいかがでしたか。少し難しかったかもしれませんが、
頑張ってくださいね。本日はシークレットイベントの第2問です。設問は……
「次の3つの言葉から連想される人物が教皇位を降りた年の西暦年の末尾の数字
1桁を、昨日の答えに加え、3を引け。
/聖職売買禁止/クリュニー修道院/マチルダ女伯」
http://www.tabiken.com/history/doc/K/K063R100.HTM
●聖職売買 せいしょくばいばい
AD
キリスト教会および修道院の聖職者の地位やそれに付随する世俗財産を金品でやりとりすること。
教会が腐敗した9~10世紀以降,こうした金力でもって高位聖職につく慣行が一般化した。
これに対し,腐敗した教会を内部から批判して刷新しようとする修道院改革運動がおこったが,
その中心をなしたのが,僧侶の妻帯禁止と聖職売買の禁止を主な目標とした
クリュニー修道院であった。
1073年即位した教皇グレゴリウス7世は,このクリュニー派の改革運動に大きな影響を受け,
いわゆるグレゴリウス改革に乗り出した。彼のねらいは教皇権の確立であり,
そのため単なる金銭による聖職の授受だけでなく,当時ドイツで行われていた世俗権力
(とくに皇帝)による聖職叙任をも聖職売買にあたるとして攻撃した。
ここから聖職叙任権闘争は始まるが,ウォルムス協約(1122)以後も
聖職売買は実際にはなくならなかった。
http://www.tabiken.com/history/doc/F/F187C100.HTM
●グレゴリウス7世 グレゴリウスななせい
AD1020
1020ごろ~85 ローマ教皇(在位1073~85)前名ヒルデブラント。イタリアのトスカーナ地方出身。
ローマの修道院でクリュニー修道院改革の精神的影響をうける。
1046年廃位された教皇グレゴリウス6世とケルンに赴く。1049年即位の教皇レオ9世とローマに帰り,
以後教会改革を推進。1073年教皇に選出・即位後,聖職者妻帯・聖職売買,俗人による聖職叙任を攻撃,
“教会の自由”の実現をはかる。
1075年教皇権の至上性と世俗君主権に対する優位性を主張,
とりわけ教会支配による帝国統治をすすめる神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と激しく対立,
聖職叙任権闘争に突入した。1076年ウォルムス会議で教皇廃位を決定した皇帝を破門したが,
翌年“カノッサの屈辱”後,赦免を与えた。
( 1077年に教皇が旅行のために滞在しているトスカナ女伯、マチルダの
いるカノッサ城に赴き、裸足で修道服をまとい3日3晩謝罪したと言われてます。)
さらに皇帝の反撃を受け再破門で対抗した。皇帝側のローマ占領,対立教皇擁立後,ノルマンの来援にもかかわらず,結局,教皇はサレルノに逃れ客死。
A.0+5-3=2
うぅ・・・すみません。
メモから転機するの疲れました・・・挫折・・・orz
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